人間を人間にしている遺伝子、動物を動物にしている遺伝子、植物を植物にしている遺伝子、微生物を微生物にしている遺伝子。それらは、かつて神秘的なものだった。神聖にして犯すべからず、そんな神がかり的な雰囲気が、宗教者や普通の庶民には勿論、科学者の間にもあった。
1953年に、ワトソンとクリックが、遺伝子の本体は物質的にとても単純であることを、示した。わずか4種類の塩基と呼ばれる分子が連なった、2本の細い糸。それがらせん状にからまりあったものが、遺伝子(DNA)であることを証明したのだ。
この単純極まりないモデルには、宗教者のみならず、遺伝子研究者の多くも、猛烈に反発した。
前者は、ヒトの遺伝子を、こんなに単純な物質と考えることは、神への冒涜だと批判した。後者は、遺伝子によって規定される複雑な生物が、地球上には無数に存在する。遺伝子の本体が、そんなに単純なはずはないと、反論した。
その後、わずか50数年間の遺伝子研究は、驚くべき展開を示した。
遺伝子は、神秘的なものでも、なんでもなくなってしまった。自然は、長い進化の過程において、単純ならば単純なほどいい、という結論に達したことが明らかになったのだ。
中学校でもできる、簡単な化学反応を使って、細胞から遺伝子を取り出すことができる。この抽出した遺伝子を、1立方メートルほどの機械に入れれば、遺伝子の塩基組成は、たちまちのうちに分かってしまう。
遺伝子を解析するこの機械は、何千万円か出せば、誰にでも買うことができる。
遺伝子を自由に作ることもできる。どのような遺伝子でも、簡単な化学反応を応用した、遺伝子を合成する市販の機械で、容易に作製できる。
そんな人工遺伝子が、試験管の中でちゃんと機能する。人工遺伝子を、試験管の中で、培養した微生物や動物の細胞に入れる。その遺伝子は、望みどおりの蛋白質を作る。
糖尿病の治療に使うヒトのインシュリンは、合成したインシュリンの遺伝子を、大腸菌やネズミの細胞に入れて作らせている。
ヒトの蛋白質を、動物の体内で作らせるようなことも、世界中で広く行われている。
動物の臓器の特定の構成成分を、遺伝的にヒトのものにすることによって、その臓器を、臓器移植に使うことも研究されている。移植されたヒトは、この臓器を動物の臓器ではなく、ヒトの臓器として受け入れるのだ。
山極は器用な研究者だった。パテントをいくつか取り、そのパテント料のおかげで、小銭を貯めることができた。
この程度のことならば、他の多くの研究者にもできる。ここまでの話ならば、山極は、「ちょっと器用な」研究者で終っていたのだが。。。
38歳でまだ独身の山極。生活をするのに、金銭的には十分な余裕があった。
研究は、仕事でもあるが趣味でもある。他に、金を使うような趣味は持っていなかった。使い道のない余った給料は、そのまま貯めこんでいた。努力をして貯めるというよりも、使い道がないので、自然に貯まってしまうのだ。
なんの気まぐれか、貯まった預金で郊外に家を買った。勤務先へ通うには、交通が便利なところだったが、家のまわりは雑木林という田舎だった。
彼は、製薬会社の研究所に勤めていた。
ある日、同じ研究所で働いている親友の田中に、そっと近づいた。
太陽がよく照っていた日なので、ブラインドが降ろされていた。汚れた実験台に向かって、ピペットを操作している田中の顔は、ブラインド越しの陽光を間接的に受けて、明るく浮き上がっていた。
その実験室には、他に誰もいなかった。ふたりの会話が盗み聞きされる恐れはなかった。しかし、山極は誰かに聞かれることを恐れるように、低い声でそっと話しかけた。
「いいアイディアを思いついたよ」。
山極がアイディア・マンなことを、田中はよく知っていた。ただし、全くの空想にしかすぎないようなアイディアも、よく口にした。現実の裏づけのないアイディアだ。SF作家でさえも使うことを遠慮するようなアイディア。
「どういうアイディア?」と、一応まじめな顔を崩さずに、田中は聞いた。
顔は、まだ実験台に向けたままだった。手は、ピペット操作のために細かく動いている。
学会発表が1ヵ月後に迫っていて、詰めの実験をしていた田中。山極の雑談の相手をする気にはなれなかった。
しかし、突拍子もないアイディアを含めて、自分には出せないようなアイディアを繰り出す山極に、田中は一目置いていた。
優秀な研究者にありがちな、自己陶酔型の山極だ。時間の無駄をなくそうと、今邪険に扱えば、アイディアを田中に話すことはなくなるだろう。
それよりも、時間を数分間無駄にするほうを、田中は選んだ。
「遺伝子操作を、飛躍的に発展させることができるんだ」と言いながら、山極はあたりを見まわした。
研究所の奥まった一角にあるその実験室。外部の騒音は勿論、他の研究室からの物音も聞こえて来ない。研究室へ近づいてくるひとの気配は、全くない。
それでも、山極が警戒心を解くことはなかった。
「でも、製薬会社が歓迎するようなものではないんだ」。
田中は、やっと横に立っている山極を見上げた。4、5日間ひげを剃っていない山極の顔。伸びたひげのおかげで、少しマッド・サイエンティストの雰囲気をたたえていた。
どうせ、空想の範囲に入るようなアイデイアだろうと、田中は考えた。山極が秘密めかすときは、ほとんどがそうだった。
そんな田中の思いこみなどは、つゆ知らずという感じで、山極は続けた。
「実験は、割合簡単にできるんだ」。
山極は一息ついて、じっと田中を見つめた。山極の瞳に、一瞬1本の細い光が走ったように見えた。
「会社を辞めて、家のガレージで研究をやってみるよ」。
田中は驚いた。だが、思いこみの強い山極が、こんな表情をしているときは、誰が何を言っても聞かないことを、田中はよく知っていた。
家庭的な雰囲気が全くない山際が、結婚するあてもないのに、最近家を買った。これを不思議に思っていた田中。しかし、家を買った理由が、突然分かったような気がした。
ガレージで実験をするために、家を買ったに違いない。まるで、アメリカの駆け出しの起業家のようだが、山際ならば、そんな決断をしてもおかしくはない。
もともと日本人離れしている。というよりも、人間離れをしているといったほうがいい。
田中は、一応友だちの義理を果たすことにした。「ノー」という答を期待しながらも、静かに一語一語力をこめて言った。
「会社で給料をもらいながら、好きな研究をしているのが、一番いいんじゃないの?やりたいことがあったら、暇なときにでもやれば。会社を辞めることはないさ」。
山極の答は、勿論「ノー」だった。
山極が自分の家にひきこもってから、1年が経った。
その間、田中と山極の間には、何の情報交換もなかった。研究所の同僚たちも、山極がかつて一緒に仕事をしていたことなどは、まるで忘れたかのようだった。
誰もが、現在を精一杯に生きている。自分の今の利害得失に関係のない人間は、忘却のかなたへ送りこんでしまう。研究者も、人の世の他の庶民と同じだ。
研究所からほど遠くないところに家があっても、なんとなく行きそびれていた田中。しかし、同僚たちと同じ理由で、行きそびれていたのではない。
田中の場合はこうだった。
山極が向き合う問題が、どれほど困難なものであっても、自分には助けることはできない。問題が大きければ大きいほど、田中が山極を助けることはできない。山極は、自分の問題は、自分ひとりで解決しようとする、一徹な気性を持っている。
友人を助けることはできない。そこから来る無力感。無力なことを確認するための行動を起すには、ある程度の勇気が必要だ。
その日は、少し気を奮い立たせて、山極を訪れることにした。晴れ上がった空と咲き乱れる花が、田中の背中を後押しした。
電車の駅で2駅しか離れていない。しかし、山極の家のあるところは、家よりも、雑木林と畑が目につくような田舎だった。
畑の中の道を10分ほど歩いて、目指す家は簡単に見つかった。周囲に家はなかったのだ。雑木林の中の一軒屋。
中古の家なので、周囲の自然によく溶けこんでいた。溶けこんでいた理由は、中古というだけではない。
雑草が伸び放題の山極の家の庭で、何頭かの親ブタと子ブタが、楽しそうに土をほじくり返していた。ブタの臭いと、ブタが互いに会話をする押し殺した声が、都会人の田中を圧倒した。
田中を迎えた山極は、少し興奮しているように見えた。伸ばし放題のひげに被われた顔が、前よりも日焼けしている。研究者というよりも、農民に近くなっていた。
近づいてくる田中に、挨拶を抜きにして、山極が話しかけた。山極の頭の中には、1年間という時は、明らかに存在していないのだ。
「遺伝子操作で、ブタの肝臓を、完全にヒト化するやり方が分かったよ」。
それができれば、臓器移植を必要としている、肝硬変や肝癌の患者には朗報だ。だが、いくら山極でも、そう簡単には、ブタ肝臓のヒト化はできるはずがない。山極だけではない。この分野の専門家ならば、誰でも、山極の言い分を信じるのは難しい。
肝臓では、数限りない蛋白質が作られている。それら全てを、遺伝子操作で、ブタのものからヒトのものにする。そんなことは、簡単にできることではない。いくら遺伝子操作の技術が進歩したからといって、少なくとも今の科学にできることではない。
しかし、1年ぶりに再会した親友だ。山極が夢見心地で言っていることを、否定しても仕方がない。
「そいつはすごい」と、田中はまず驚いて見せた。
反射的に口から出た言葉だった。研究所で、一緒に仕事をしていたときの習い性が、突然現れてしまった。田中には少しおかしかったが、そんなことはおくびにも出さなかった。
山極は、ブタの話をそれ以上しようとはしなかった。田中はこれ幸いと、山極のブタの研究の話を聞くことは止めた。
ふたりは、どうでもいい以前の研究を、共通の話題として取り上げた。
それから1カ月、以前よりも山極のことが気になりだした田中は、再び山極を訪れた。
庭で、前の時と同じように、ブタたちが楽しそうに遊んでいた。
「今、ブタの脳を完全にヒト化することを考えているんだ」と、山極が言った。
田中は、不安になった。
脳のように複雑な臓器を、完全にヒト化することなど、天才科学者にもできることではない。
山極は正気なのだろうか?SFのマッド・サイエンティストならば、お笑いで済む。本当に狂気になってしまったのでは、お笑いでは済まない。
山極を訪れるのが、何となくおっくうになってしまった田中。忙しいのにかまけて、1年以上も山極を訪れなかった。山極からも音沙汰はなかった。しかし、1年以上も会わないでいると、さすがに気になって、田中はやっと重い腰を上げた。
山極の家の玄関に立ったとき、田中のそれまでの重い気持ちは吹きとんだ。
家の中から、なんと赤ん坊の元気のいい笑い声が、聞こえるではないか。あの山極がやっと結婚したのだ。子供ができれば、普通の人間並みに、行動をするようになるだろう。
少しふとった山極は、本当にうれしそうだった。
山極が案内してくれたベッド・ルーム。小さなベッドの中に、丸々とふとった健康そうな赤ん坊が、横になっていた。
その子は、かしこそうなよく輝く瞳で、ベッドの中から、部屋へ入って来た田中をじっと見つめた。
「おめでとう」と、田中ははずんだ声で山極に言った。
「赤ちゃんができたのは勿論、結婚したことも知らなかったよ。それにしても、この赤ちゃんはきみにそっくりだね」。
山極が田中を真正面から見つめた。ほほが紅潮し、いかにも得意そうだった。
「結婚なんかしていないさ。この子は、ぼくの研究成果だよ」。
田中は一瞬息をのんだ。その間合いは、多分1秒もなかった。田中は低い声で、早口につぶやいた。山極よりも、赤ん坊に問いかけているように。。。
「研究の成果だって?」。
山極は、間を置いてから答えた。
「そうだよ。とうとう、ブタの遺伝子を、全て完全に、ヒトの遺伝子に置き換えることに成功したんだ。この子はブタだけれども、遺伝的には完全に人間なんだ」。