Story 15

運命のコリージョン・ポイント

混雑した駐車場

晩春のシドニー。その日は、いつものようにとてもよく晴れていた。まだ11月は終わっていないが、既に汗ばむような陽気だ。

土曜日の午後。広大なガレリア・ショッピングセンターは、買い物客でにぎわっていた。十字型のショッピングセンターの建物の中心に、半透明の巨大なドームが突き出ている。その建物を囲んで、ユーカリの木がそこかしこに点在した、広い駐車場がある。

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普段ならば、空いた駐車スペースを容易に見つけることができる。しかしこの日は、クリスマスセールが始まってからの最初の土曜日だ。駐車場は、歩いて一周するのも大変なほどに広かったが、どこにも空きはなかった。

このような状況下では、やって来る車には2つの選択枝しかない。開いているスペースを探して、広い駐車場をぐるぐる回り続けるか、駐車場の一角に停まって、目に入る範囲に駐車しているどの車かが出て行くのを、じっと待ち続けるか...。

土曜日の午後だ。誰にとっても、やることはショッピング以外にはない。他にやることは何もないのに、車の運転席に坐ると、誰もが気短かになる。そんないらいらした運転手を乗せた車が、路上に停車し、駐車場の混雑にさらに輪をかけていた。

車に戻る3人

ショッピングカートに、じゃがいも、キャベツ、牛肉、小麦粉の入った袋を積んで、ポーランド人の女性ヤニーナが、買い物からゆっくりと戻って来た。料理が得意な中年の女性だ。カートを押しながら、いつも料理のことを考えている。そのおかげで、どこに駐車しているのかを忘れ、足腰が痛くなるほど、駐車場を歩き回ることがあった。

年のせいで、やや痛風気味になってからは、さすがに駐車場所を覚える努力を、怠らなくなった。その日も、その場所は覚えていた。ユーカリの木の間に立っている、目印になる立て札の番号はM-95だ。

彼女の車は、古いもえぎ色の角張った大型車フォード・ファルコン。少し離れていても目に付くこの車は、ショッピングセンターから歩いて来ると、車道の右側、ユーカリの影の中にあった。

彼女は車のトランクを開けた。車が上下に震動した。重いビニール袋を、ゆっくりとトランクの中へ入れた。空になったカートを、離れたカート置き場へ押して行くのは、面倒だ。近くの歩道へ乗り上げておけば、手間が省ける。そのあとのカートの始末は、ショッピングセンターの係員に任せればいい。

ヤニーナは、注意深く辺りを見回し、車が来ないのを確かめた。空になってもまだ重く、車輪が右へ左へと勝手に振れるカートを押して、歩道まで少し歩いた。

カートを、赤レンガが敷き詰められた、車道よりも一段と高い歩道の上へ、ゆっくりと押し上げた。カートが、がちゃんと派手に鳴った。

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その間に、日本人の明夫が、魚、鳥肉、豚肉、しょう油、野菜を積んだカートを押して、やって来た。紫外線遮断コーティングをした眼がねが、強い陽光を反射した。眼がねの奥にある明夫の眼は、他人から見えなくなった。

赤いホンダ・アコードは車道の左側、ファルコンよりも1台分ショッピングセンターに近い所に、停めてあった。明夫は全てのビニール袋を、あっと言う間に、手際よくトランクへ入れた。それから、少し離れた所にあるカート置場へ、わき目もふらずにカートを押して行った。強い陽光の下で、流れるように行動する明夫は、苦行にいそしむ修業僧のように見えた。

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ヤニーナと明夫が車へ戻る前に、中国人の男性ジアンが、食用油、豚肉、鳥肉、野菜の入ったカートを押して、足早にやって来た。丸顔のジアンの額には、汗が浮かんでいた。ビニール袋が詰め込まれたカートは重かったが、ジアンの顔は、大きな買い物をした得意さで、晴れ晴れと輝いていた。

ジアンの青いヒュンダイ・ソナタは、アコードと同じように、車道の左側、ファルコンよりも1台分、ショッピングセンターから離れた所に、停めてあった。ジアンは、ソナタのトランクに、あたふたとビニール袋を入れるのももどかしく、空のカートを歩道のほうへ押して行った。

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ヤニーナが戻って来て、ファルコンに乗り込んだ。そのすぐあとに、明夫とジアンが戻って来て、アコードとソナタに乗り込んだ。

3人は車に乗り込むところを、お互いに見ていなかった。混雑している駐車場では、特に理由がない限り、特定の人に一々注意を向けることはない。そしてこの3人には、今のところ、お互いに注意を向ける理由はなかった。

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前方でも後方でも楽に駐車ができる、車1台分のスペースが大きい駐車場。それに加えて、3人とも、やっと見つけた空きスペースに駐車するのに、後方駐車ができるほどの心理的な余裕を持っていなかった。不幸にも、3人は前方駐車をしていた。

思い思いの判断

車に乗り込んだ3人は、自宅の方角を考慮した上で、駐車場のどの出入り口から、駐車場の外へ出るのかを考えた。

左側の明夫は、ショッピングセンターへ向かい、センターの反対側から外へ出ることにした。同じく左側のジアンは、逆に、ショッピングセンターとは反対の方角にある出入り口へ、向かうことにした。右側に駐車していたヤニーナも、ジアンと同じ方向へ行くことを考えた。

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コリージョン・ポイント
parking

ショッピングセンターから見ると、左側の明夫とジアンの車の間の右側に、ヤニーナの車があったことになる。

ヤニーナは、運転席から見て左側、つまり、これから向かう駐車場の出入り口の方角から、車が来ないことをまず確かめた。混雑しているショッピングセンターでの買い物。いらついたが、その程度の確認をするくらいの余裕は、まだ残っていたのだ。それから真後ろにも視線を向けた。後方に、動いている車はなかった。

駐車スペースからの車の引き出しは、ゆっくりと始めた。古いファルコンががたんと揺れた。ヤニーナは、駐車スペースから車を引き出す間、これからバックして行く車道の右側を見ていた。

そのすぐあとで、明夫とジアンも車を後方へ発進させた。

明夫は車道の右側、即ち引き出した車をバックさせる方角へ、反射的に顔を向けた。しかし、実際には何も見ていなかった。日本で子供のときから教え込まれた、「右見て、左見て」を、無意識のうちに実行したにすぎない。彼の注意は、これから向かう、ショッピングセンターの方角へ向けられた。

ジアンは、車を急発進させた。運転席の左側を一瞥するのももどかしく、これから向かう駐車場の出入り口のほうへ、すぐに視線を移した。そちらをじっと見つめていれば、車は1秒でも早く、駐車場から出られるとでもいうように...。せわしなくハンドルを切るので、車は左右に揺れた。

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バックし始めた順序は、わずかの差でヤニーナ、明夫、ジアンだった。だが、バックする車の速度は、速い順にジアン、明夫、ヤニーナ。ジアンの車は特に速かった。

微妙な位置関係と不幸なタイミングから、すぐ近くで動き始めたお互いの車を、3人とも見ることがなかった。神様の思し召しで、人生にはこんなことがよくある。

小さなショックから始まった大きな口論

ドラマの開始を予兆させるように、強い日差しが、一瞬さらに強くなったように感じられた。3台の車の黒い影が、急速に接近した。それらの影は一点に収束した。

ジアンのぎょろ目が顔一杯に広がるのと、警笛が鳴らされるのは同時だった。ジアンは瞬間的にブレーキも踏んでいた。しかし残念ながら、交通教室で繰り返し教え込まれるように、車はブレーキを踏んでも、そこで停止はしない。

3人は、車の後方に軽いショックを感じた。明夫とヤニーナがブレーキを踏んだのは、そのショックのあとだった。

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ヒュンダイの青い運転席側ドアーが、大きく開いた。ドアーはバウンスした。ジアンがまず、びっくり箱の人形のように車から跳び出した。次にアコードの赤いドアーが、控え目に開いた。明夫が車の外へ出た。何が起こったのかを理解するのに、時間がかかったヤニーナが、最後になった。もえぎ色のファルコンのドアーは、人1人がやっと通過できるだけの幅で開いた。ヤニーナがゆっくりと出て来た。

3台が衝突した地点で、ジアンの車のバックは終わっていた。車は、既に車道に並行になっていた。明夫の車は、車体全部が駐車スペースから出たところだった。ヤニーナの車は、駐車スペースからまだ半分しか出ていなかった。

「大変だ。大変だ」と、ジアンが叫んだ。

ジアンは叫びながら、2人と2人の車をしっかりと観察し、瞬時に値踏みを終えてしまった。

次の叫びは、「大変だ」よりもさらに大きくなっていた。「君たちが僕の車にぶつかって来た」

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衝突のショックは小さかった。じかに衝突箇所を見ても、大した被害ではないことが、明夫にはすぐに読み取れた。

周囲には、駐車スペースが空くのを待っている車が、たくさんある。明夫は衝突よりも、他の車の運転手の視線のほうが気になった。こんなところに車が3台止まっていれば、自己主張の強いオーストラリア人が、間違いなく何か叫び始める。明夫は落ち着きなく辺りを見回した。

車が衝突したのは分かったが、その状況をよく呑み込めないヤニーナは、まだぼんやりしていた。

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「僕が警笛を鳴らしたのに、君たちがぶつかって来た。僕がブレーキを踏んで車を止めたのに、君たちがぶつかって来た」と、ぼーっとしている2人めがけて、ジアンがここぞとばかりに叫んだ。

このままでは、車へ戻ろうとカートを押している人たちが、周囲から集まって来る。明夫はぶつかった箇所を調べて、問題の解決法を考えることにした。

3台の車の塗料が少しはげていた。明夫はためつすがめつしたが、どの車にもへこみはなかった。

2人の男たちの行動を見て、ヤニーナはやっと全ての状況を理解した。ジアンの態度から判断すれば、かなり難しい状況になりつつあることも分かった。

ジアンの思惑

「これだけのダメージを、ガレージに頼んで直すと、600ドルはかかるよ」と、ジアンが自分の車の傷を指さしながら言った。

「えー?こんなの大したことないじゃない」と、明夫。

海外勤務でシドニーに住み始めて、7ヶ月。オーストラリア人は、車の見かけを、日本人ほどには気にしないことが、よく分かるようになっていた。この程度の傷ならば、自分で直してしまうのが普通だ。

「3人の不注意でこうなってしまったのよ。皆の責任だから仕方がないわ」と、責任の所在をあいまいにすることによって、ヤニーナは問題を解決しようとした。

ジアンは、他の2人の意図は完全に無視することにした。押せば通るような雰囲気を、この2人から感じたのだ。そこで単刀直入に言ってしまった。

「君たちが僕の車の修理費を、君たちの保険で払うと、あとで毎年の保険料が200ドル上がるよ。今、2人で僕に600ドル払ってしまったほうが、ずっと安くつくよ」

「でも、3人とも一緒にバックしていたんだよ。責任は皆同じじゃないか」と、ヨーロッパ系オーストラリア人の女性を、味方に付けることを選んだ明夫。

「私が後を見たときは、誰もバックしていなかったわよ。私が最初にバックを始めたのよ」と、アジア人の1人を味方にして、気が少し強くなったヤニーナ。

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2人を敵に回したことを理解したジアンの声は、さらに大きくなった。2対1ならば、声の大きいことが勝つための条件になる。

「僕の車を見て。バックが終わって、ほとんど前へ走り始めるところだったんだ。僕が最初に発進した。君たちがぶつけて来たのは、間違いない。裁判所へ行っても、きっとそういう結論になるよ」

こんなところで問題を起こして、会社まで巻き込むようになれば、明夫の社内での評価は悪くなる。まして、来月妻が子供を連れて、シドニーへ引っ越して来るのだ。問題が大きくなることだけは、避けたほうがいい。

「そんなに怒鳴るなよ。皆が見ている。恥ずかしいじゃないか」と、明夫は小さい声で言った。英語はまだ流暢とはいかなかったが、こんな状況になれば、必死で話すことになる。

「なんでそんな結論になるの?」と、ヤニーナが興奮して、一瞬遅れながらもジアンに食いついた。「私が後を見て発進したときには、どの車もまだ動いていなかったのよ」

「ま、ま、ま、ま、よく考えてよ」と、ジアンがなだめるような声を出した。「裁判所へ行けば費用が高くつくよ。1000ドル以上になるかもしれない。その上、保険料の値上げだ。今ここで、2人で600ドルを僕に払ってしまうほうが、ずっと安く上がるよ」

遅まきながら、ヤニーナは完全に興奮した。頬が紅潮した。

「何を言ってるのよ」と言うと、ヤニーナは早口で続けた。「問題はお金じゃないわ。私の人間としての誇りと信念は、どうなるのよ。私は、絶対に自分からはぶつけなかった。そんなことはよく分かっている。ぶつけたと自分に嘘をつけというの?どうやったら、そんなことが可能なの?自分自身に嘘をつくことなんて、できないわ」

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カートを押していた人ばかりか、車道に止まっていた車からも、人が降りて集まって来た。周囲の人だかりが大きくなった。

ヤニーナとジアンは、視線を直接にぶつけあいながら、議論を始めた。明夫ははみ出してしまった。それに、周囲の皆の注目を受けるのが恥ずかしかった。そこで、3台の車の傷を調べるような格好をして、車の陰に坐り込んだ。

「よく考えてよ」と、ジアン。「何度も言うけど、君たちがぶつけて来たのは間違いない。車の位置を見れば分かる。僕の車はもう車道に出て、車道にまっすぐになっている。僕は警笛を鳴らしたし、ブレーキも踏んだ。ここで600ドル払ってしまえば、それでおしまいだ。それが、君たちにとって一番安くつくやり方だ」

「だめよ」と、ヤニーナ。「私は人間として、自分の誇りと信念に賭けて、そんな事実とは違うことを受け入れられないわ」

明夫は車の陰にいても、間が持たなくなった。周囲に集まった人たちの視線は、そこまで入り込んで来る。

「分かった。分かった」と、恥ずかしさに耐え切れなくなった明夫が、ついに叫んだ。「裁判所だ。裁判所だ。3人の意見が一致しないんだから、裁判所だ」

裁判所でも何でも、早くここから逃げることが最優先になった明夫。ただしジアンの意図に察知がついたので、ジアンが裁判で争う気はないことには、確信があった。ジアンをへこますために、その確信に賭けることを選んだのだ。

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毛色の違う人間が3人、「600ドル」、「誇りと信念」、「裁判所」について議論をしている。

見物人はさらに増えた。ショッピング以外に何もやることのない人たちにとって、こんなドラマの見物をしながら、時間をつぶすことには、十分に価値がある。明夫にとっては、予想がはずれたことは幸いだった。この国際紛争は、このあとしばらく続くことになるが、車道を占拠している3人を非難するオーストラリア人は、一人も出てこなかったのだ。

小説 2010/5/16

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