Story 4        ●  ●  命   の   水

熱砂のリヤド
 その年の夏は特に暑かった。サウジアラビアの首都リヤドは、アラビア半島の広大な砂漠地帯の中央部に位置している。そこでは、日中の最高気温がしばしば50度を越えた。
                        
 砂漠の砂は、鉄分を多く含んでいるために赤く見え、猛烈な陽光に照らされて燃え上がる。近代的なビルが立ち並ぶリヤドは、圧倒的な自然の威嚇に耐え切れず、熱気の中で今にも消え入りそうに小さくなっていた。
                        
 熱気の巨大なかたまりは、砂漠の真ん中の首都の上に、既に数週間も居座っていた。白熱の太陽が放つ強烈な陽光が、あらゆるものの上に降り注ぎ、近代的なビル群は、いくつもの小さな太陽が地上に舞い降りたかのうように、まばゆく輝いていた。
                        

                        
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 光の中にどっぷりと浸った高層ビル群を少し離れると、伝統的な長方形の土の家が立ち並ぶ、郊外の住宅地がある。そこを離れれば、枯れた潅木が丸くなって転がっている原野があり、原野はそのまま広大な砂漠へと続く。
                        

                        
ふたりの男が退屈な理由
 ドイツ人ビジネスマンのウイルは、こんな夏の日中にはいつもめまいを感じた。彼の家族は、涼しい夏休みを過ごすためにドイツへ戻ってしまった。独り者の生活が精神を不安定にさせるために、めまいを感じるのではない。
                        
 これが、リヤドで過ごす最初の夏だったためだ。リヤドにおけるような強烈な陽光、高温、それに乾燥を、ドイツ北部産まれのウイルは、それまでに経験したことがなかったのだ。
                        

                        
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 ドイツ人らしくちょっと頑固なウイルは、塀に囲まれた外国人居住区の中に住むことを拒否し、現地の人たちが住む高級マンションの一角に、部屋を借りていた。部屋にはよくコントロールされたエアコンが付いていて、外界から遮断された室内は、小さなパラダイスのように快適だった。
                        
 だが日曜日の午後に、たったひとりで部屋に座っているのは、頑固なだけではなく忍耐強いウイルにとっても退屈だった。彼はしばらくの間、高層階のマンションの窓の外に広がる、灼熱地獄を見ないようにしていた。
                        

                        
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 退屈はついに極限に達した。そして、街の外に住んでいるオーストラリア人の友達のロブを訪ねるという大きな決心をして、ロブに電話をかけた。
                        
 ロブの家族も、夏休みで自国へ帰ってしまっていた。サウジアラビアでは、女性は外出時にアバヤという黒い長衣を着なければならない。それだけではなく、女性には車の運転も禁止されている。こんな生活にオーストラリア人の女性が耐えられるはずもなく、家族の夏休みは、本来の夏休みよりも前後に1ヶ月ずつ伸ばされていた。
                        
 残された男同士がふたりでビールを飲むという誘いを、ロブが断れるわけがなかった。
                        

                        
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 ウイルは、会社のコンテナーの荷物の中へ缶ビールを忍び込ませ、アルコールが禁止されているこの国へ、ひそかに持ち込んでいた。持ち込んだ缶ビールは、ベッドの下の狭い空間に横倒しにした冷蔵庫の中に、隙間もなく並べられていた。
                        
 そのとても価値のあるビールを、ウイルは大げさな儀式をやっているかのように、大事そうに取り出した。実のところ、この男には法を犯すほどの肝っ玉はなかったが、たった1週間でもビールを飲まないでいるなどということは、ドイツの男にとっては耐えられることではなかった。そのため、大胆にも違法行為を犯すことになったのだ。
                        

                        
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 ウイルは車の座席の下へ缶ビールを隠した。暗い車庫から、めまいがするような強い陽光に照らされた通りへ、車を注意深く滑り出させた。
                        
 通りには、他の車も通行人も見当たらなかった。奇妙な静寂があたりに満ちていた。こんなに暑い日は、暑さに強いはずのアラビア人にとっても耐えがたかったのだ。
                        
 愉快なオーストラリア人と一緒に、冷たいビールを飲む期待に胸をふくらませて、市外へ向かう人気のない通りを走っているうちに、ウイルは次第にリラックスしてきた。
                        

                        
天国はふいに地獄になる
 ビールにどっぷりと浸った国から来た、ビールをこの世の何物よりも愛するドイツ人の訪問を、ロブは歓迎した。ロブもまた、秘密に輸送し、こっそりと冷蔵庫に入れておいた缶ビールを取ってきた。ふたりは、ビールを交換することもなく、自分の国のビールを飲み始めた。
                        
 それから、こんな禁酒国のサウジアラビアの悪口を言うのを忘れて、自分の国のビールの自慢話を始めた。そういう話はビールの味を引き立て、ビールの缶を空にする速度を速めた。
                        
 ロブは、オーストラリア人が、ひとり当たりのビール飲酒量で世界一になったことを自慢した。ウイルは勿論、ドイツのビールの品質の良さが自慢だった。
                        

                        
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 ところが、宴は間もなく不意に断ち切られた。幸せが永遠に続かないことは、人生の真理である。
                        
 誰かが突然、ロブの家のドアをノックしたのだ。ドアをノックする音を聞いた途端に、ロブの顔色が赤色から青色に急変した。彼は、愉快な友達と一緒にビールを飲むという大きな快楽に心を奪われて、ドアに鍵をかけるのを忘れたのだ。
                        
 ロブは急いでドアへあゆみ寄った。しかし、外の誰かがドアを開けるほうが早かった。
                        
 テロリストが横行しているサウジアラビアでは、訪問先の家の者がドアを開けるまで、警官が待つことはない。鍵がかかっていなければ、警官が先にドアを開ける。テロリストの容疑者の家ならば、鍵がかかっていても、家主から借りた鍵で先にドアを開ける。
                        

                        
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 ドアの前に、薄茶色の戦闘服を着た警官が立っているのを見るのは、みじめだった。脇に抱えた自動小銃が、いやでも目についた。ただ通常の家宅検閲らしく、警官はひとりしかいなかった。
                        
 ロブは、頭が空白になったにもかかわらず、飲酒にはムチ打ち80回の刑があることを突然はっきりと思い出した。80回のムチ打ちの痛みまで背中に感じた。
                        
 あごひげを生やしたいかめしい顔つきの警官。日に焼けたためか生まれつきか、普通のサウジアラビア人よりももっと色の濃い褐色の肌が、よけいに凄みを与えていた。
                        
 本来ならば、夏のこの時間には、警官もオフィスでとぐろを巻いている。勤勉の代償として汗をびっしょりかいた警官は、涼しい部屋に入るなりドアを後手で閉めた。
                        

                        
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 彼は、アルコールのしゅら場を見た。
                        
 ドイとオーストラリアの本国のアルコールのしゅら場から見れば、ここのしゅら場は、午後のコーヒー一杯程度のものだった。
                        
 だが、この国においては、ビール缶が何本か転がっているだけでも、とんでもないしゅら場になる。宗教が求める完璧さは量を問題にはしない。質が問題になるのだ。アルコール飲料をたった一口でも飲んだという質が、問題なのだ。そこに妥協の余地はない。
                        
 かすかに漂うアルコールのにおいが警官を麻痺させたかのように、警官の動きは止まった。
                        

                        
アラーの思し召し
 その部屋を、しばし完全な静寂が支配した。
                        

                        
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 「何をしているんですか?」と、警官がとうとう口を開いた。アラビア語だった。
                        
 「............」。まるで、最も簡単なアラビア語も理解できないかのように、ふたりの男は黙っていた。
                        
 「この国では、アルコールを飲むのは禁止されているのを知っていますか?」と、再び警官。今度は途切れ途切れの英語だった。
                        
 「はい、知っています」。ロブは、警官と同じように汗びっしょりになりながら、アラビア語で答えた。
                        
 「それで..........」。警官は続けるのをちゅうちょした。
                        

                        
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 その警官は、暑い夏の日のパトロールに疲れていた。
                        
 ふたりのよっぱらいにとって幸運だったのは、警官はどちらかというと、いい加減な男だったことだ。エリートの宗教警察官にはとてもなれない男だ。人生においては、何でも60~70%完全ならばそれでいい、という考えの持ち主だった。
                        
 100%にまで思想堅固なイスラム教徒ではないことは、上司に見抜かれていて、ずっと真夏の家宅検閲のような一番いやな仕事をさせられる、下っ端のままだった。
                        
 この警官は、人間の持つ本質的な弱みにも通じていた。それを否定する気持ちは全く持っていなかった。ありのままを受け入れる。警官は、アラー以外には、100%完全なものは何もないことを知っていたのだ。その警官もふたりの外国人も、勿論不完全な人間だった。
                        

                        
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 暑い日の仕事が、更に彼のいい加減さを増幅していた。乾いたのどが、もっといい加減なイスラム教徒になることを要求していた。 警官は、半分乾いた舌で唇をぬらすと、再び話し始めた。
                        
 「おふたりとも、95%が水でできているものを飲んでいたのとは、違いますか?」。
                        
 窮地に追い込まれていたウイルとロブの頭は、瞬間的に猛烈に回転した。ふたりは、警官が何を言おうとしているのかを、ただちに理解した。
                        
 ふたりは、同時に大声で答えた。まるで、正解を見つけた小学生が大得意になって、クラス・メートの前で同時に答を言うかのようだった。
                        
 「そのとおりです。これらの飲み物の中味の95%は水です。残りの5%はただの不純物です」。
                        
 警官は、自分に言い聞かせるかのようにはっきりと、表情も変えずに続けた。
                        
 「勿論、人の生に完全なものは何もありません。人間はアラーとは違います。何であれ、95%の純度はすばらしいと言えます。5%の不純物など、ないようなものです」。
                        

                        
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 警官はやっと一息ついた。そして続けた。
                        
 「その水を飲んでも構いませんか?こんな暑い日には、水は命の源です。灼熱地獄のような外をパトロールしていると、本当にのどが乾いてしまいます」。
                        
 ウイルとロブは、冷えたドイツとオーストラリアのビールを、喜んで同時に警官に勧めた。
                        

                        
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 3人の男たちは、アラーの思し召しに感謝しながら、リヤドのめまいがするように暑い午後のひとときを、”命の水”を飲みながら楽しく過ごした。
                        

                        
小説 2008/8/10

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