Story 3

大きな不幸と小さな幸せ

悲劇の序章

最近、地球の平均気温は、次々と過去最高を更新している。ただし、地質学的な時間スケールで見ると、大したことはない。

8000~1万年前には、今よりも0.5~2度ほど地球は温暖だった。さらに6500万~2億5000万年前の中生代までさかのぼると、地球の平均気温は、今よりも15度も高かった。その頃東京が存在していれば、高温多湿の熱帯雨林に埋没してしまっていた。
中生代には、巨大なシダ植物のジャングルの中を、恐竜がいばりくさってドタドタと走り回っていた。今ならば、ハリウッド映画に出演して、高い出演料をもらえるところだ。けれども、ネズミのように小さかった私たち哺乳類の先祖は、ティラノサウルス、ベロキラプトル、ブラキオサウルスなどという、おどろおどろしい名前の恐竜に追いかけられて、パニック状態。映画出演の依頼をすることなどは、未来永劫に渡って思いもつかない、という有様だった。映画に出演しているわけでもないのに、気持ちだけはスターだった恐竜たちを育んだのは、結局は高温多湿の地球環境だった。

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話が妙な方向へ進んでしまった。作者は、この小説で、温暖な世界で楽しく生きている恐竜の話を、書くつもりではなかった。最近の地球温暖化に警鐘を鳴らす、地球環境の保護という高尚な目的のために、この小説を書き始めたのだ。原点に戻ろう。

気温の科学的な観測は19世紀に始まった。気温が過去最高を更新し続けているのは、それ以降の話だ。平均気温は、最近100年間に0.8度上昇したことが知られている。この程度では、中生代どころか、この1万年間の最高気温も超えていないのだから、大したことはないと、読者は思うかもしれない。それは間違いなのだ。

上昇のペースは20世紀後半から加速しつつある。人間の産業活動から排出された、二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスが、この加速化の主因になっている。
両極の氷や、ヒマラヤ、アンデス、アルプスなどの山脈の氷河が融け、海水面が上昇している。海面からの水蒸気の蒸発量が増え、局地的な豪雨やその逆の旱ばつが、世界各地で起こっている。酷暑が厳しくなり、台風やハリケーンなどの異常気象が激しさを増してきた。

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気温が、地質学的な時間の長さ、すなわち十分に長い時間をかけて上昇するならば、大した問題にはならない。動物も植物も、その変化に適応しながら、進化を続けていくことができる。人間だって、恐竜並みに、暑い気候に耐えられるようなからだを、持つようになる。

問題なのは、変化が短期間に起こる場合だ。ネズミ、ブタ、ヒトなどの哺乳類のDNAには、たった1パーセントの違いしかない。見かけとは違って、DNA鎖全長の実に99パーセントが、哺乳類の間で共有されている。遺伝子の基本構造はそれほどに保守的だ。
遺伝子の変化は、環境の激変に追いつくことができない。新しい環境に順応する前に、生物は次々と死んでいく。そして種の絶滅だ。現在地球上に生存する約2000万種の生物のうち、5~15万種が毎年絶滅している。絶滅の速度は加速している。

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地球の温暖化は、異常に速いスピードで進んでいる。温暖化ガスによる温室効果によって、自然環境の変化のスピードは加速している。環境の激変は、生物が耐え得る限界を超えている。

フラットランド国の事情

太平洋の真ん中にあるフラットランド国。サンゴ礁から成る島国だ。純白の砂浜によって縁どられた、5つの環礁が、青い太平洋に小さな円弧を描いていた。
人が住んでいるのは一番大きなパフナヒ島だけだ。面積は142平方キロで、小豆島に近い。人口はわずか4万2000人だったが、イモ、ココナッツ、バナナが自生し、養豚、養鶏が盛んなので、人々は自給自足の生活をできた。海に出れば魚は豊富だ。しかし、わざわざ危険を冒してまで漁に出る必要はなかった。強い風が吹かず、雨が適度に降る、まるでこの世の天国のような島だった。

フラットランド国の政府は、地球の温暖化には、特に強い関心を持っていた。というのは、国土のほとんどが、海抜の低い平らな土地だったからだ。国土の90パーセントは、海抜20メートル以下の低地なのだ。
もしも地球全体の気温が、中生代並みに上がれば、両極や氷河の氷が全部融けて、海面が200メートルも上昇する。フラットランド国が完全に水没するのは、それよりもはるかに早い時期になる。地球上の氷が10パーセントも融ければ、島国消失には十分なのだ。

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美しい白砂の海岸の浸食は、既にかなり進んでいた。海岸沿いに林立する、防波堤のようなヤシの木の根元は波で削られ、木は今にも倒れそうになっていた。高潮が来るたびに、波打ち際に最も近いヤシの木から順に、海へ向かって倒れていった。波打ち際のそこここに、倒れて枯れたヤシの木が打ち上げられた。そんな危機的な状況も、子供たちの遊び心を萎縮させることはできない。危機的状況こそ、逆に子供たちにとっては歓迎される。白いパンツがよく似合う、褐色の光る肌を持った子供たちが、倒木の周辺でいつも遊び回っていた。
たまに襲ってくる嵐の日には、子供たちはさらに大はしゃぎをするが、大人には大変だ。波しぶきが、高床式の家のヤシの葉でふいた屋根にまで、飛んで来るのだ。家の中にある全ての物が、海水でぬれてしまった。

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子供を除けば、状況が予断を許さないことは、誰にでも分かる。それでも、フラットランド人を含めて、人間は誰でも、最後の最後まで、最悪の悲劇が自分を襲うことはないと、信じながら生きている。
たとえば、1000兆円を超える政府債務を抱えていながら、そんなことは、日常生活では忘れて生きている日本人。人間は誰でも、いつかは死ぬことを理解しているが、それははるかに遠い未来のことと思っている。例外的な重病人を除いて、自分が死ぬことは、今日明日の現実的な問題ではないと、誰もが考えている。ドライブに出かける前に、交通事故で死亡することを予想している人は、1人もいない。電車で通勤をしている人が、電車の脱線で死ぬ可能性があることを、考えたりはしない。

そんな楽天的な性格のおかげで、どのように過酷な状況下でも男女は愛をはぐくみ、人類は70億人にまで増えることができた。

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ところが、どの国にも、例外的に心配性の人がいるものだ。楽天的過ぎる人々とバランスを取ることが、神が自分に与えた使命であるというように、全ての可能性の中から、常に最も悲劇的な未来を予想する。
世界中の楽天的な人間の中でも、トップクラスの楽天性を持つフラットランド人。しかし、この世の天国フラットランド国に住んでいる、これらの人たちも例外ではなかった。悲劇の可能性に賭ける人が、この国の支配層の中にいたのだ。

心配性の人が庶民ならば、何を言っても、社会に大した影響を与えない。けれども、絶大な権力を持っている支配層が発言をすると、影響は間違いなく大きく広がる。すぐそこ、目に見える未来に自国が消えることを国民が知れば、人々はパニックになるだろう。一歩ゆずって、パニックにはならなくても、毎日楽しく生活している人たちを、わざわざストレス性胃潰瘍にする必要はない。
そのような国民を思う親心から、心配性の永世大統領・・・というよりも、永世首領といったほうが似合う、肌が黒褐色で、小太りのジビコンボタリアウテコモガオテプノコタウイ18世は、温暖化の研究を研究者に極秘にやらせていた。ただし小国だ。自給自足ができる国とはいっても、国家予算は極端に少ない。それにも関わらず、地球温暖化が自国に与える影響の研究に予算を回すところに、大統領の強い危機感が現れていた。
大統領の名前が長すぎて、日本人にはちゃんと読むのも大変だ。フラットランド国では、国を支配する家族の名前は、威厳を保つために長くすることになっている。作者の責任ではありません。

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もっとも、研究とはいっても、ユネスコの援助で、オーストラリアへ留学した2人の若者しか、この仕事に従事していなかった。若者ではあるけれども、この国では2人は立派なエリートだ。国家へ献身するエリートらしく、研究環境の細微に至る整備まで、2人は自分たちだけで行なった。

日本の援助で建設された、軽油発電所からの電力供給は、軽油不足で滞りがちだった。そこで2人は、オーストラリアの友だちから、ソーラーパネルや充電用電池を送ってもらい、太陽光発電装置を自作した。年間快晴日が300日を超える国だ。豊富な自然の恵みを発電に使うことは、フラットランド国の将来設計に、大きな影響を与えることにもなる。
2人は、衛星回線でインターネットにつないだ、オーストラリアから持ち帰った2台のパソコンを使い、世界中から集めた情報を解析した。島中を観察して、自然環境がどのように変化しているのかも、注意深く調べた。膨大な量の情報の多くは異なる専門分野に属する。難しい国家研究に没頭する2人には、フラットランド国のやさしい女性とデートをする時間も、持てなかった。それでも、義務感に駆られた2人にとっては、とても充実した毎日だった。

研究した場所まで、ここに詳しく書く必要はない。しかし、首都というよりも、村落といったほうがいいところにあったことだけは、書いておく。研究所は、屋根のヤシの葉が他のどの家よりも分厚く積み上げられた、大統領府の裏のジャングルの中に、ひっそりと隠れていた。この小さな山小屋へ、ジ・・・18世は足しげく通った。しかし、研究に没頭している若者に言う言葉の数は、少なかった。
「ごくろうさん。何か必要な物があったならば、いつでも言ってくれたまえ」

短い言葉の中に、大統領の万感の思いがこめられていた。大統領の親身な支援のもとに、2人の研究者が解析しなければならなかった情報は、とても多岐に渡った。今現在の世界の政治状況まで、考慮しなければならなかった。

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1997年に、第3回の環境に関する国際会議が、京都で開催された。そこで、研究者というよりも外交官といったほうがいい、各国の利益を代表する参加者たちによって、議論がなされた。

二酸化炭素ガスの排出削減案は、アメリカやオーストラリアが単刀直入に拒否した。マキャベリストが集まっているヨーロッパの国々は、今まで散々やってきたやり方を踏襲した。自分たちが外交的にイニシアチブを取ることを、まず考えたのだ。自らがやる気のない不可能な理想論を、理論で武装してタイミングよく提案した。どの国にとっても不可能なことであれば、将来的に、自分たちだけが不実行で責められることはないから、何を提案しても安心なのだ。開発途上国は、自分たちさえよければいいということで、先進国のみが排出規制をすることを主張した。
議長国の日本は、建前以上の決議を望まなかったので、いつもの国際会議のように、議定書は建前という前提で、大勢を占める意見に同意した。
その結果、建前は建前、本音は本音と割り切った参加者たちによって、美辞麗句に満ちた京都議定書が作られた。それは「歴史的な合意」と自画自賛された。

いやはや、次の4回目の国際会議も同じような結果になったのだ。

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その間に、開発途上国は先進国になった。「先進国入り、おめでとう」とばかり、喜んではいられなかった。二酸化炭素ガスの排出も、先進国並みになったのだ。このことは、深刻な意味を持っている。地球大気中の温暖化ガス量を急激に増加させることに、新しい先進国が多大な貢献をすることになったのだ。この状況を客観的に解析すれば、気温の上昇には加速度がつくことが分かる。

ただし、ガス量増加と気温上昇には、時間的なずれが生じる。気温の上昇は、ガス量増加から20~30年遅れるのだ。気温上昇と氷の融解にも、時間的なずれが出てくる。それに加えて、海水面の上昇は両極から始まるので、温帯や赤道周辺における海面上昇は、両極よりも遅れる。こういう事実を全て考慮すると、温暖化ガスの影響で海水面が上昇したことを示す、地球的規模の具体的なデータを人間が得る頃には、全てが手遅れになってしまっていることが、分かる。危機対策の手は、打ちようがなくなってしまうのだ。

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献身的な2人の若手研究者は、深い洞察のもとに複雑な解析を行なって、不幸な結論を出すことになった。このこと自体は不幸にも賞賛に値する。彼らが出したその不幸な結論とは・・・。
『急カーブを描いて上昇する地球の気温は、京都会議から80年後に古生代並みになる。しかし、海抜が20メートル以下のフラットランド国の存亡の危機は、それよりもはるかに早く来る。28年後には、海の中へ完全に消えてしまう』

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ジ・・・18世の家族が主要なメンバーである、フラットランド政府の首脳は、極秘に対策会議を開いた。窓を閉め切った部屋で、蒸し暑さをこらえながら、首脳たちは汗びっしょりになって激論を戦わせた。いつもはのんびりとしたフラットランド人だが、国家と民族の存亡がかかっているのだから、議論が激しくなるのは止むを得なかった。しかし、地球規模の変化は、先進国が現代科学を総動員しても、止められるものではない。議論は延々と続いたが、名案が出るはずはなかった。

大統領であるジ・・・18世は、沈黙したまま首脳たちの議論を聞いていた。黒褐色の顔にしわが刻まれ、疲労と苦悩の色が浮んだ。最後に、実現はほとんど不可能と思われる破れかぶれな案を、重々しい口調で話し始めた。
「皆、聞いてくれたまえ。この長い歴史を持つフラットランド国の大統領として、発言をしたい。この国を愛する皆の心の奥底から出た意見を、確かに拝聴した。全てを考慮した上で、私の気持ちを申し上げる。他国の民をだまし、他国の民を犠牲にしてでも、フラットランド人を生き延びさせることを、私の選択としたい」

温厚なジ・・・18世の口から出た衝撃的な言葉を聞いて、首脳たちは静まり返った。次の具体的な説明を待った。
「ここから1万キロ離れたユーラシア大陸の中央部、ヒマラヤ山脈へ続く高地にハイランド王国がある。岩だらけの急峻な山が国土に広がっていて、耕作可能な平地は山間にしかないが、土壌は肥沃なので農耕に適している」

そこまで言うと、明らかに心の中で何かが吹っ切れた。ジ・・・18世の口調が断固としたものになった。
「温暖化の研究結果を隠したまま、国土の交換を提案してはどうだろうか。フラットランド国の国民はハイランド王国へ移住。ハイランド王国の国民は、フラットランド国へ移住するのだ。この国が水没することを知らなければ、ハイランド人は、1年中温暖なこの国へ喜んで移住する可能性がある」

このような結論を出したからといって、ジ・・・18世を責めてはいけない。人間は、いつもこういうようにだましあって生きてきた。だましあいに勝ったほうが生き残る。適者生存、弱者淘汰。そうやって、優秀な遺伝子が選択的に次世代へ受け継がれ、人類は進化してきた。特に、集団のリーダーは、自分が責任を持っている集団の遺伝子を、後世に残す責任を負っている。ジ・・・18世は、自分のその責任を果たすことを考えたのだ。

ハイランド国の事情

ところが、偶然にも、ハイランド王国でも、極秘に危機の研究をしていた。俗世界から隔離されたハイランド人も、温和で楽天的な気質を持っていた。そうはいっても、先に書いたように、どこの国ののんびりした人たちの中にも、物事を少し悲観的に考える者がいる。特に、民族の現在と未来に責任を持っているリーダーは、あらゆる可能性を考える過程で、悲観論におちいることがある

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ハイランド王国は活発な地震帯の上にあって、小さい地震がしょっちゅう発生した。そのたびに、数人から数十人の住民が死んでいた。地震のたびに、ト・ポン国王が被災者支援の先頭に立った。いつも心を痛めていた国王は、地震の予知研究のために、なけなしのサイフをはたいた。そのおかげで、予知研究がこの国ではとても進んだ。ただし、ヒマラヤ山脈の中の小国だ。研究者として従事したのは、ここでも、留学から帰ったばかりの若者が2人だけだった。

巨大地震の発生が高い確率で予知されても、それを公表すると国民はパニックにおちいる。ト・ポン国王の命で、全ての研究が極秘のうちに行なわれた。研究者の若者が中年のおじさんになるくらい、長期に渡ったこの極秘研究から最終的な結論が出た。
『ヒマラヤ山脈を縦断する地下の活断層に、膨大な地殻のひずみエネルギーが溜まっている。28年後に、超巨大地震がハイランド王国を襲う。この地震のスケールは、世界が今までに経験したどの地震よりも大きく、マグニチュード10に達する。超巨大地震は、ハイランド王国を完全に壊滅させる』

フラットランド国と同じように、28年後に危機がこの国を襲うという結論になったのは、偶然だ。作者の意図とは無関係なことをお断りしておく。優秀な研究者による卓越した科学的考察が、何事においても作者の意図より優先される。

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ここでも、「人間の歴史をさかのぼれる範囲内において」の超巨大地震、という限定がつく。地質学的なスケールで考えれば、温暖化と同じように何でも大したことではなくなってしまう。
人類が経験したことのない大激変が、地球で過去に何度も繰り返されてきた。人類が今までに経験した激変などは、たかがしれている。人類誕生以前の大激変の前では、わずか700万年しかこの地球上に存在していない、人類が経験した激変などは、とてもちっぽけに見えてしまう。

こんなことを人間である作者が書けば、人類に対する裏切り行為になってしまいそうだ。これは書かなかったことにしておこう。

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ここでもまた不幸な秘密会議が開かれた。ハイランド王国でも、現代科学を総動員しても、この凶暴な自然による破壊は止められないということが、2人の研究者の説明によって理解された。長い議論の末に、細い目が悲しそうに見えるト・ポン国王によって、結論が出された。

ハイランド国でも、現代科学を総結集しても、この凶暴な自然による破壊は止められないということが理解された。そこで、ここでもまた不幸な結論になったのだ。
「私たちの国の冬はちょっと寒い。しかし、春から夏、秋にかけての気候は、とても穏やかだ。空気がよく澄んでいて、誰にとっても住みやすいことが、私たちには自慢だ。サンゴ礁の小国で、農業には余り適していないが、人が住むのには問題のないフラットランド国が、太平洋にある。地震予知研究の結果を隠したまま、国の交換をフラットランド国へ提案してはどうだろうか」

ブッシュファイヤー国の事情

世界は広い。地球の温暖化に、深刻な関心を持っている国が、他にいくつもあったのだ。その中では、フラットランド国とブッシュファイヤー共和国が、左右の双璧になる。ただし、ブッシュファイヤー共和国の悩みは、フラットランド国とは全く異なっていた。

赤道から少しはずれたところに位置しているために、雨は比較的少ないが、酷暑が襲うブッシュファイヤー共和国。長い乾季になると、いつも原野の火事に悩まされた。最近も、広大な国土が2カ月に渡ってえんえんと燃え続け、死者が大勢出た。
水の供給がなければ人間は生きられない。乾燥が支配する国土の大部分に、人はほとんど住んでいなかった。人口は街に集中していた。ところが、原野の火事によって、街周辺の住宅地までもが燃え上がってしまう。街は外界から隔離される。火事のたびに、人命のみならず経済も甚大な打撃を受けた。国境を越える煙害に悩まされる周辺の国々からは、火事を出さない対策がなぜできないのかと、ごうごうたる非難も浴びた。

この国の名誉のために書いておこう。ブッシュファイヤー共和国の政府は、考えられる限りのありとあらゆる対策を、ちゃんと取っていたのだ。しかし、自然の力は、人間の力をはるかに超えている。

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この国の温暖化に関する極秘研究においても、フラットランド国と同じように、地球規模の急激な気温上昇は避けられないという結果が、出ていた。それがさらなる乾燥と原野の火事につながる。ブッシュファイヤー共和国の自然災害は、間違いなく確実にもっと悪くなる。20~30年以内に、それが国の崩壊につながる。

ブッシュファイヤー共和国は、民主主義の体裁を整えた国だった。それでも、国民に絶望を与え、国の経済、軍事、外交、観光に、打撃を与えることになる温暖化研究の結果が、公表されることはなかった。与党の議員にも知らされなかった。政府の一握りのメンバーだけが、研究結果をもとに、国の命運を握る重大な会議で対策を検討し、結論を出した。ブッシュファイヤー共和国の政府も、全国民を引き連れてこの国から逃げる画策を始めたのだ。

気候が寒く、荒涼とした土地からなるファーサウス国から、空があくまでも高く暑いブッシュファイヤー共和国へ、いつもたくさんの観光客が訪れていた。一年中寒さにふるえているファーサウス人は、この国の暑い気候をとてもうらやましがっていた。
「地球温暖化が、ブッシュファイヤー共和国へ与える影響を教えないで、ファーサウス国へ国土の交換を申し出れば、受け入れるかもしれない」という提案を、サンシャイン首相が秘密会議で開陳した。原野が燃えているときに訪れたファーサウス国の観光客は、火事の怖しさを知っているので、受け入れないかもしれないという反対意見があった。しかし、「背に腹は変えられない」。ブッシュファイヤー共和国政府は、ファーサウス国と秘密交渉を始めることを決議した。

ファーサウス国の事情

ファーサウス国は、南極からそんなに遠くないところにあった。

世界各地で、大気中へ放出された、フロンやハロンなどの工業用ガスは、磁場によって南極上空へ集められる。紫外線によって分解されると塩素ラジカルが生成し、成層圏のオゾンを破壊する。紫外線を吸収するオゾンが消えると、強力な紫外線が地上に降り注ぐようになる。
ファーサウス国の国民は、2~300年前に、大西洋を越えてヨーロッパから移住してきた、白人だった。南極上のオゾンホールの拡大につれて、皮膚癌をはじめとする悪性癌の患者が、急速に増えた。皮膚にメラニン色素の少ない白人は、紫外線による皮膚の癌化には特に弱いのだ。オゾン層の徹底的な破壊が進むにつれて、人間ばかりか、紫外線に弱い動植物も次々と死に絶え始めた。

しかし、こんな不愉快な事実を他国に知られれば、主要な産業である観光ばかりか、国の経済や外交までもが打撃を受ける。ファーサウス国の政府は、自国における悲劇の進行を慎重に隠していた。

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ファーサウス国の政府にとって、地球規模のオゾン層の破壊を止めることには、手の下しようがない。悪いことに、極秘研究の結果は、オゾン層のさらなる破壊の結果、国民のほとんどが30年以内に癌で死んでしまうことを、示していた。
ここでまた、お決まりの政府決定だ。この国の政府は、研究結果を極秘のままにし、究極の問題解決法として、ブッシュファイヤー共和国へ相互移住の提案をすることにした。ブッシュファイヤー共和国が、原野の火事で大弱りなのを知っていたからだ。ブッシュファイヤー人は黄色人種なので、紫外線による癌化には強い。こんな事実が、ファーサウス国政府の罪の意識を多少なりともやわらげた。

国を交換する交渉の妥結

秘密を保つために、各国の交渉は第三国で行なわれた。フラットランド国とハイランド王国は、マレーシアのクアラルンプールのホテルを交渉の場に選んだ。ブッシュファイヤー共和国とファーサウス国は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロのホテルだった。2つの交渉グループは、他の交渉グループのことを全く知らなかったが、交渉開始日は偶然にも同じ日になった。

秘密交渉のために、各国の特命使節団が自国を出発したときには、どの使節団もとても悲観的だった。国を平和裏に交換するなどということは、今までの人類の歴史をふりかえると、ほとんど不可能に思えたのだ。何しろ、土地の奪い合いは、常に血みどろの戦いを伴った。敵対する相手を死滅させるか、強制的に追い出すまで、戦いが終わることはなかった。土地の奪い合いが民族間の怨念になって、2つの民族が、何千年間も敵対関係のままでいることも、珍しくはなかった。
ところが、今回の交渉では奇跡が起こったのだ。

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極秘の会議だ。交渉の内容は、どの国も事前には相手に知らせていなかった。どの政府も、とても重要な提案をすることだけは、交渉相手の政府に知らせた。相手の腹の内を知らないばかりか、交渉については、誰もが悲観的な結果を予想していたので、ホテルの部屋には、最初から重苦しい空気が流れていた。

クアラルンプールのホテルで会った、フラットランド国とハイランド王国の使節団は、テーブルに着くと、まず相手の顔をじっと見つめた。誰も会話のきっかけを作らなかったので、気まずい空気が流れた。留学の経験があって英語が達者な研究者たちも、通訳を兼ねて会議に参加していた。研究者たちは、他の団員よりもややリラックスしていたが、団長よりも先に口を開くわけにはいかない。
ハイランド人よりも少しばかりは社交的な民族性を持つ、フラットランド人の団長のスホボンデュが、沈黙に耐えかねたようについに口を開いた。
「フラットランド国ジ・・・大統領から特命を受け、交渉に当たらせていただく団長のスホボンデュと申します」

「それは、それは・・・。遠いところをようこそおいでくださいました。ハイランド王国ト・ポン国王の特命を受け、団長として交渉に当たらせていただくラ・シオンと申します」

地球の反対側のリオのホテルでも、重苦しい空気の中でぎこちない挨拶が交わされた。
「ブッシュファイヤー共和国政府から特命を受けた、ルイと申します」

「ファーサウス国政府から全権を委任された、スミスと申します」

各国の使節団が、損得勘定を計算した上で、慎重に交渉の目的を説明し始めたとき、ぎこちなさは驚きを伴った歓喜に変わった。相手国も、国土の交換を提案するためにこの会議に望んだのだ。それならば交渉は速い。どちらの交渉も、30分のうちに基本合意に達してしまった。

極秘研究の結果は、ここでも相手国に明かされなかった。研究結果を知れば、移住の意志が打ち砕かれることを、どの使節団も恐れたのだ。相手に対して何となくうさん臭いものを感じたが、背に腹は変えられない。どの使節団にとっても、サインは「ゴー」以外にあり得なかった。

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あとは細かい詰めと、自国民の説得が必要になる。特に、見知らない土地へ移り住むことになる、自国民の説得は重要だった。交渉に臨んだ4カ国の政府は、自国内でマスコミ(ミニコミしか持っていない国もあった)を総動員し、派手な宣伝を繰り広げた。移住によって天国のような生活が保障されると、繰り返し国民の頭の中へ、うれしい情報がたたきこまれた。全ての計画が当然のことのように進行した。

まさに民族大移動だった。4年をかけて、合計で690万人が地球上を移動したのだ。

アフリカを出てから、砂漠、山、氷山、川、ジャングル、海を越え、たった5万年のうちに全地球的に広がった人類の子孫だ。人間には、異なる環境に対する高い適応能力がある。4つの国の国民は間もなく新しい土地に慣れ、まるで先祖代々そこで住んでいたかのように、落ち着いた生活を始めた。

地球規模の大きな不幸

しかしながら、事態は各国の極秘研究のとおりに進行した。中・後進国とはいえ、若い研究者たちがいかに優秀だったかが、不幸にも証明されたのだ。

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海水面の上昇には、年と共に加速度がついた。フラットランド国へ移住してきたハイランド人が、全ての条件を考慮した上で、全国民がそろって逃げる方法を検討する時間は、残されていなかった。1人ひとりが小さなボートに乗って、洋上へ逃げるしか方法はなかった。それができずに溺れ死ぬ者が数多くいた。不幸にも海岸線を持つ他国も緊急事態にあり、世界には、太平洋の小国を構っている余裕などは、全くなかった。
28年後に、以前のフラットランド国はほとんど海中に水没してしまい、かつての丘陵のてっぺんが、荒れ狂う海の上にやっと頭を出していた。波頭は、水面になんとか突き出たこの山のてっぺんを走った。

以前のハイランド王国は、28年後に、マグチュード10という、想像もできないような超巨大地震に襲われて、壊滅した。急峻な山々が崩れて盆地を埋め尽くし、平らな高原国になってしまった。盆地にあった集落は全てが岩礫に埋もれてしまい、フラットランド国から移住してきた人々は、全てが死んでしまった。

地球の温暖化は、前のブッシュファイヤー共和国を完全に崩壊させた。25年も経たないうちに、酷暑と乾燥化によって、国土に存在する燃焼可能な物は、全てが燃え尽きてしまった。炭化した草木で地表が被われていたのもつかの間、それらは異常気象による猛烈な突風によって、跡形もなく吹き飛ばされてしまった。国土は完全に砂漠化した。
移住してきたファーサウス人は、今を生きるために流浪の民になり、他の土地へ散っていった。地球上のどこへ行っても、安住の地はなかった。異常な自然環境下で、人々は、自分だけが生き残るために壮絶な戦いをしていた。

前のファーサウス国は、オゾンホールの急拡大とともに、激しく降り注ぐ紫外線のシャワーにさらされた。移住してきた黄色人種でさえも、皮膚の癌化から逃げることはできなかった。悪質な癌細胞はからだ中へ広がり、ブッシュファイヤー共和国から移住してきた人々は、次から次へと病に倒れた。30年後に、生き残っている者はほとんどいなかった。

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世界の他の国の状況も同じようなものだった。

海面の上昇は多くの国を水没させた。巨大な堤防を乗り越えた海水が、怒涛のようにオランダの平野へ侵入し、そこであふれ返った。オランダの国土は地球上から完全に消えてしまった。東京湾は関東平野の内陸部にまで広がり、かつてそこに世界有数の大都市があったという証拠は、海面のどこを探しても見つけることができなくなった。

今まで海に面していなかった国々も、海岸線を持つようになった。それはヨーロッパにおいて特に顕著で、チェコやハンガリーにまで海が迫ることになった。

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やがて、これまでを超える猛烈な異常気象が、世界中を襲った。地球史的な視点から見れば、温暖化前の安定した気候から、温暖化後の安定した気候へ移る、ほんの過渡期の変動に過ぎなかった。だが、か弱い人間にとっては、この世の終末とも思える激しさだった。
時速200キロにも達する猛烈な嵐。嵐は休みなく続いた。豪雨と暴風が荒れ狂う巨大な台風が、シベリアまでも破壊した。怒涛のような大洪水が地表を削った。直径10キロにも達する巨大な竜巻が、各地を次々と襲った。すさまじいかみなりが至るところに落ちた。

地球上の全ての物が破壊し尽くされた。

生き残った日本人の小さな幸せ

多くの動植物が、生き残れないで絶滅していった。人類が絶滅しなかったのは、まさに奇蹟だった。

全地球的な暴風雨は18年間続いた。異常気象がやっと収まったとき、地球上の陸地はとても小さくなっていた。海水面になんとか残った陸地に、人間の住めるようなところはほとんどなくなっていた。
わずかに生き残った人間があちらこちらの洞窟に住んで、原始人のような生活をしていた。髪もひげもぼうぼう。やせ衰えたからだには、文明が作った衣服なのか、動物の毛皮なのか、どちらとも判然としないボロがまとわりついている。

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残念なことに、今まで書いてきた4カ国の国民は、この時点までに完全に死に絶えてしまった。そこで、最終章は、なんとか生き残った日本人の物語になる。

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以前の季節でいえば冬のある日、だが気温は、以前の季節の真夏の最高気温を超える日のことだった。かつて上高地と名づけられた丘陵地帯にも、久しぶりに雲の切れ間から太陽の光が射していた。焼岳は丘のように低くなっていた。大正池は土砂によって埋め尽くされ、分厚い堆積層の上に新しい桂川の激流が走っていた。辺りには激流が鳴る音しかなかった。

残り少なくなった動物を追いかけていた4人の男たちが、丈の低い草がちょぼちょぼと生えている、桂川沿いの原野で出会った。
男たちは、そ知らぬ振りをしてゆっくりと近づいて行った。顔はあらぬ方向へ向けていたが、視線は横目にしっかりと固定し、互いを注意深く観察した。誰にとっても、他の3人はとても血色よく見えた。4人とも、他の3人は食料が十分にあるところに住んでいるのだろうと、推測した。

沈黙がしばらく続いた。桂川の激流の音が大きくなった。

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やがて、一番年長と思われる男が、栄養がゆき届いているように見える若い男に、思いきって話しかけた。何しろ生き残りがかかっているのだ。いつも遠慮がちな日本人だが、この程度の大胆さは、嵐に吹き飛ばされもせずに心のどこかにまだ残っていたのだ。特に、自分が最年長者と判断したその男は、半分は自分の義務という日本人の感覚で、会話の口火を切った。
「すみません。こんなことを突然に言うのはぶしつけとは思いますが、聞いていただけますか?もしもよろしければ、住んでいるところを交換していただきたいのです。私が今いるところは、ウサギなど、小さな動物がとてもたくさん獲れるんです。でも、長く住んでいると食べあきちゃいまして・・・」

声をかけられた男は、相手の栄養状態は自分よりもずっと良いと、思っていた。そこで、喜びを顔に出して年長者に悟られることのないように、意識的に重々しく答えた。
「ご提案を誠にありがとうございます。私が今住んでいるところには、動物がいるだけではなく、実をたくさん獲れる木もあります。けれども・・・まあ、いいのではないでしょうか。私も、同じような生活には飽きてしまいました。住むところを交換するというご提案を、心からお受けしたいと思います」

2人は、しかつめらしく額にしわを寄せてうなづきあった。喜びの感情を抑えていたとはいえ、心の奥底から湧き出るうれしい気持ちを、完全に隠すことはできなかった。年長の男が、照れ隠しのように交渉相手の背をそっとたたいた。背をたたかれた若い男は、久しぶりに日本人独特のおじぎを深々とした。

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あらぬほうへ視線を向けたまま2人の会話を聞いていた、もう1人の若い男は、とてもうらやましくなった。さっきから、沈黙したまま地面を見つめていたほほの紅い中年男に、勇気を出して声をかけた。
「どうですか。私たちも住むところを交換しませんか?私が今住んでいる海岸では、魚も貝もたくさん獲れるんです。でも、魚も貝も食べすぎてもう飽きちゃいました」

中年男はとてもプライドが高かった。この期におよんでも、「武士は食わねど高楊枝」なる日本の古いことわざが、頭をよぎるくらいだった。それが沈黙していた理由だったが、精神論は食欲の本能には勝てない。今か今かと待っていた若い男の提案を聞いて、つい生つばが出てしまった。相手に悟られないように注意をしながら、ごくりと生つばを飲みこんだ。何しろ、一昨日から何も食べていないのだ。それを悟られないように意識的に腹を突き出すと、言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「うーん。あなたがお住まいのところでは、魚と貝が獲れるのですか。私は、海産物をそれほど好きというわけではありません。けれども、せっかくご提案をいただいたことですし、動物の肉は食べすぎてもう飽きたということもありますから・・・いいですよ。交換しましょう」

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他人のことはよく見える悲しい性を持った人間が4人。そこで、しばしの喜びに浸ることになった。

小説 2008/6/24(改訂 2013/7/6)


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