ロッドの第六感が警鐘を鳴らした。死と隣り合わせの生活の中でみがき上げられた、野獣の本能が、体内で極限にまで活性化された。ロッドは、息をこらして、山小屋の外の物音に聞き耳をたてた。道路は、山小屋の前を通って、東と西の2つの方角へ伸びていた。東西から、何者かが山小屋に近づいて来る。木々のそれとは違う、リズム感のないかすかな物音が聞こえた。
ロッドは、床に落ちていたライフル銃を手に取った。筋肉が盛り上がった腕を通して、銃の重みがからだ中に伝わった。それは信頼のおける武器だった。敵をかならず倒す無慈悲な武器。からだ中に心地よい緊張が走った。殺しへの期待が、心の奥底からこみ上げてきた。気持ちが高揚した。
ドアーに鍵をかけていなかったのに、突然気づいた。影のようにドアーに擦り寄ると、差し込んだままになっていたキーを回した。施錠の乾いた音が、思いがけなく大きく部屋に響いた。同時に、山小屋の外で、銃の重い発射音が湧き起こった。弾丸がドアーを突き抜け、ドアーが砕ける音が混じった。ドアーを貫通した弾丸は、部屋の反対側の壁にめり込んだ。レンガの破片が床に落ちる、乾いた音がした。
敵は、予想していたよりも、ずっと近くに来ていたのだ。ロッドは、部屋のもう一方のドアーに走りより、そのドアーを押し開いた。そこから、外の原生林へ通じる、台所のドアーを見ることができた。
彼らは動きを止めた。風の単調な音が、まるでずっと遠くから聞こえてくるように、思われた。静寂の世界の片隅に押しやられたように、かすかな音になっていた。
部屋に淀んだ闇は、ロッドを有利にした。敵が部屋に踏み込んでも、ロッドの位置を確認するまでに、1秒の数分の1はかかる。それだけの時間があれば、ロッドのほうが早く銃の引き金を引ける。ロッドは数歩後ずさってから、壁に寄りかかった。
建物の前と後で、数回の銃声が同時に鳴った。その音がからだ中を打った。閉じられていた、玄関と台所の2つのドアーの取っ手が、吹き飛ばされた。身じろぎもしないで立っている、ロッドの目の両端に、両方のドアーが、弾丸の衝撃を受けて、大きく開くのが映った。ドアーは何度かバウンドしてから、半開きの状態で停止した。外の光がドアーを通って入ってきた。ロッドはまだ薄闇に守られていた。風が、開いたドアーから吹き込んだ。
前方の玄関の向こうにも、後方の台所の向こうにも、人影を見ることはなかった。薄闇が下生えに漂っている原生林が、風で揺れている。
ロッドは床に身を伏せた。前方のドアーへ這い進んだ。彼らに銃を撃たせるために、原生林へ向かって盲撃ちをした。その途端に、弾丸が前と後から飛んできて頭をかすめた。白い硝煙が、灌木の間から立ち昇った。敵は、ロッドのトリックに引っかかったのだ。硝煙の下にいる、前方の敵を目がけて銃を撃った。誰かが地面に倒れる音を聞くやいなや、ロッドは立ち上がった。すばやく台所の出口へ向かった。
敵は一人しか残っていない。・・・こう信じたことが彼を油断させた。
後方のドアーの外の硝煙が上がった場所も、見極めていた。ロッドは、残った警官が、どこに隠れているのかを知っていた。台所の出口を通して、その灌木の陰を撃つと、黒い人影が悲鳴とともに飛び上がった。胸からほとばしる血が、手から離れて飛び去る銃のあとを追うのが、見えた。
しかし、その男が地面に倒れるのを、見ることはできなかった。後方から飛んできた弾丸が、からだに当たった。激しい衝撃が襲い、からだは一瞬にして床に投げ出された。
その途端に、もう一人の警官のわなにかかったことを悟った。悪がしこい奴だ!ロッドに撃たれたような振りをして、わざと倒れる音をたてたのだ。
生あたたかい血が左肩から流れ落ちた。痛みは感じなかった。銃はどこか遠くへ飛び去り、掴むことはできなかった。絶望とともに、乾いた足音が近づいてくるのを聞いた。ロッドがゆっくりと仰向けになると、足元のさきに男が見えた。男は部屋の闇の中で、かすかに笑いを浮かべた。
その男は左手にナイフを持ち、右手の銃をロッドに向けていた。サデイストの喜びが顔を輝かせ、その顔は闇の中でもはっきりと見えた。ロッドは、狩猟警察官が、犠牲者を殺すことなく、極めて効果的に苦痛を与えることを、知っていた。犠牲者は、苦悶にもだえながら、死を熱望するようになる。
ロッドは歯の間に舌を入れ、顎に力を込めた。意識の中に空白が広がった。死への恐れはなく、また生への執着もない。舌の中で血管が脈打っているのを、はっきりと感じることができた。
その男がなぎ倒されるまでに、数秒とはかからなかった。男が倒れると同時に銃声が響いた。
入り口に女が立っていた。外の光を背にしていたが、からだの輪郭だけではなく、身に付けているものまでもが、はっきりと見えた。彼女は、コミックのヒロインのように見えた。切って短くした青いジーンズ。ところどころが擦り切れている。短めの黒いブーツ。ハチのように細い腰に巻いたガンベルトには、ナイフと拳銃が下がっている。豊満な胸がデニムの上着を押し上げ、デニムの胸のボタンは一つか二つはずされていた。
右手に持ったショットガンの銃口から、細い硝煙が立ち昇っていた。
女は、音も立てずにロッドに近づいた。不思議なことに、ロッドは、この見知らない武装した女に、なんの警戒心も抱かなかった。彼は目で女の動きを追った。
女は警官のからだを荒っぽく、明らかに憎しみをこめて蹴った。その男のからだから、ドスッという鈍い音が聞こえた。男は、かすかに痛みを感じたようだった。それが、最後まで残っていた一滴の命の証しだった。男はすぐに死んだ。深い静寂が、死体と女とロッドを包んだ。
女はロッドの上にかがみ込んで、肩の傷を調べた。女の甘い汗のにおいが、ロッドの鼻腔を刺激し、肺の奥深くへ入り込んだ。
「大したことはないわ。弾は通り抜けてしまった。骨に異常はなさそうよ」
低く落ち着いた女の声には、何の感情も含まれていなかった。しかし、そのとき、女の単調でかすれた声の中に、過去を失ってしまった者の深い悲しみを、ロッドは十分に感じ取ることができた。辺りは薄闇に包まれていたが、彼女の目の奥底の深い悲しみを、見逃すことはなかった。ロッドは、たちまちのうちに、彼女に魅きつけられるのを感じた。
彼女が今ここにいる・・・ロッドのそばに。彼女がいるのを感じることは、自分が存在しているのを感じること。ロッドの心のどこか奥深い底から、奇妙な感情が湧き出てきた。それは愛なのだろうか?あるいは、孤独が女の温かい肉を求めているのだろうか?
女はロッドの目をのぞき込んだ。多分2~3秒間。そして言った。
「かすり傷を消毒してから、包帯を巻いてあげるわね」
彼女はひざをついた。ロッドのシャツを破いた。頭を傷口に下げると、唇で傷口を被った。しなやかな髪が垂れ下がって、ロッドの頬に触れた。明らかに、長い間、髪を洗っていなかった。髪から甘酸っぱい香りが発散していた。ロッドは、女の温かい舌が、感じやすい傷口に触れるのを感じた。やわらかい舌が、むきだしの肉をそっと押した。彼の全ての感覚が、女の舌の動きに集中した。痛みと快感。血と混じりあった熱い汗が、肩の皮膚に沿って流れ落ちた。
「攻撃する前に、小物入れを、少し離れたところに置いてきてしまった。取って来るわ」
女は外へ出た。ロッドにはとても長く感じられた数分間が、過ぎた。女はカーキ色のリュックを背負って戻って来た。そのリュックの中から包帯を取り出すと、ロッドの肩の周囲にしっかりと巻いた。
風の音が遠くなった。静寂がしばらく辺りを包んだ。それから女がたずねた。
「あなたは、私が後をつけているのに、気がつかなかったわね?」
「後をつけていたって?」
ロッドは、今日のできごとを、記憶の中から呼び起こした。海辺で若い男を攻撃したときに、誰かに見つめられている気配を感じたことを、突然思い出した。この女だったに違いない。
「あなたを殺すことができたわ」と静かな声音を崩さずに、彼女は続けた。「生きるために、食べるために。あの若い男をあなたが殺したのと、同じ理由で...」
女は初めてかすかにほほ笑んだ。悲しみを奥に秘めた顔に、瞬間、楽天的な気質が垣間見えた。饒舌になった女が続けた。
「あのとき、私はおなかが一杯だった。あなたは運がよかったわ」
彼女は再びほほ笑んだ。ほほ笑みが大きくなった。ロッドをまっすぐに見つめる瞳が輝いた。
「あなたを初めて見たときに、いやな印象を持たなかった。女の直感よ。あなたは運がよかったわ」
彼女は、妖精のように軽やかに立ち上がった。ロッドに魅力的なからだを見せつけるかのように、つま先立ちで一回りした。
「きみの名前は?」とロッドがたずねた。
「シェイラ...シェイラ・ケルソよ」
「おれの名はロッド・ダントン」
「オーケー、ロッド。立ち上がって。傷は大したことがない。大丈夫よ。外へ出てみましょう。そんなに悪い日じゃないわ」
ロッドはシェイラにうながされて立ち上がった。飢えと出血が彼を弱らせていたが、からだの細胞全部から、エネルギーが湧き出てくるのを感じた。
家から走り出ようとしていたシェイラを、ロッドは呼び止めた。
「ねえ、シェイラ。ちょっと待って。腹ぺこなんだよ。肉を少し食べなくちゃ」
焼いた警察官の肉は、脂肪がのったブタ肉の味がした。人肉を食べるということに、何の感慨も持たずに、ロッドはむさぼり食った。人類最大のタブーは、たった一度でも破れば、次回からは何の意味も持たなくなる。
「このブタに、なぜこんなに脂肪がのっているのか、分かる?」とシェイラがたずねた。
「やつらは、食べ物をたくさん持っているんだろう」
「その通りよ。でも、どこに持っているのか分かる?」
「いいや、おれは知らないよ」
「私は知っているわ」
シェイラの声が突然陰鬱になったのに、ロッドは気づいた。女の瞳は、再び悲しみと憎しみに満たされて暗くなった。
「ブタたちは、マウントビューテイーの町の近くの山の中に、巣を作って住んでいるの。やつらの最後の巣よ。あそこは、雨が降るし涼しいわ。原野の火事を恐れる必要がない」
シェイラはまばたきもせずに、ロッドの瞳の奥底に目の焦点を合わせた。何の感慨も見せずに、言葉を単調に続けた。
「やつらを攻撃するんだけれど、手伝ってくれる?」
ロッドは肉をかむのを止めて、彼女を見つめた。シェイラは疑いもなく真剣だった。彼女の目は、同意することだけを求めていた。
「食べ物を手に入れるために?」とロッドがたずねた。
シェイラは何も答えずに、ロッドを見つめ続けた。
シェイラの攻撃への意志は固く、それは、ほとんど狂気といってもいいくらいだ。彼女の表情は、その固い意思を、断固としてロッドに伝えていた。
シェイラが意図しているのは、ただ単に食べ物を得ることだけではない、それは確かだった。しかし、本心を今ロッドに話すとは思えなかった。ロッドは、彼女の望みをかなえて、喜ばせてやることだけを考えた。シェイラは今や、ロッドにとってそれほど大事な人間になっていた。他に、生きることには何の意味もない生活。ロッドは、シェイラのために死んでもいいと思った。
「シェイラ、いいよ。おれには命の借りがあるからね」とロッドは静かに続けた。「やつらの基地を攻撃するということは、死を意味すると思う。そこには狩猟警察官が大勢いるんだろう。プロの殺し屋だ。やつらは、いろいろな武器を持っている。でも、おれは、きみのために死んでもいいよ」
シェイラはロッドに飛びついて、しっかりと抱きついた。彼女の頭が肩の傷を打ったので、ロッドは痛みに顔をしかめた。
「ロッド、ありがとう」
彼女を引き離してから、ロッドはたずねた。
「やつらの基地について何を知っているの?」
「とってもよく知っているわ」と言いながら、シェイラは再びほほ笑むのを止めた。
少し間を置いてから、沈痛な響きをこめた声で、しぼり出すように言った。
「私はあそこに住んでいたのよ」
「住んでいたんだって?」
「そうよ」と彼女は言った。「なぜそこにいたのか、後で話すわ。今は聞かないで。話す気分じゃないの」
「いいよ。きみは基地についてよく知っている。そのことだけが分かれば十分だ。攻撃のための情報が必要だからね」
ロッドは、その後基地についての情報を得た。24人の警察官が、7つのキャビンに分かれて住んでいる。ヘリコプターは4機。戦車もある。ロッドはシェイラの話を聞きながら、その辺りの地図を描いた。
「あの3人の警察官が乗って来たヘリコプターで、基地まで飛んで行こう」とロッドが言った。
「ちょっと待って。3人の警察官...?」とシェイラは考え込みながら言った。「あのヘリコプターは4人乗りよ」
ロッドは、すぐに彼女の言いたいことを理解した。
「そうだ。あれはベル52ーM型戦闘ヘリコプターだ」
彼は、そのタイプの戦闘ヘリコプターを思い描いた。
「機内に4席ある。パイロット一人、通信士一人、それに戦闘員が二人だ。警察官がもう一人、ヘリコプターに残っているかもしれない」
間髪を置かずにシェイラが叫んだ。
「殺すのよ」
「もしも、もう一人残っているならば、ヘリコプターを手に入れるために、殺さなければならない」とロッドが答えた。
警察官に対する彼女の憎悪は、計りしれないほど深いことを、ロッドは知った。
二人は、ヘリコプターが着陸したと思われるところへ、急がなければならなかった。時間的な余裕はない。もしも、もう一人警察官がいて、仲間の帰りが遅いのを気にしはじめたならば、上空から捜索を始めるかもしれない。
ロッドとシェイラは外へ出た。平和な時代のハイキングではない。二人は、警察官に途中で遭遇する可能性を考えて、無言のまま音をたてないように気をつけながら、歩いた。周囲の状況をよく把握していたシェイラが、先頭に立った。
焼けたユーカリの木に被われた低い峰を4つ越えた。やがて、山間の低地に着陸している黒いヘリコプターを、煙が漂う木々の間に見つけた。ヘリコプターの操縦席に男が坐っているのが、遠目にも見えた。ヘリコプターの窓は開かれていた。
シェイラが、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「私が、向こう側からヘリコプターに近づくわ。やつの注意を引くために、風上のこちら側であなたは音を立てて」
シェイラは音もなく、影のように木々の陰の中へ消えていった。ロッドは、落ちた枝や木の葉を踏みつけながら、峰の斜面を歩いた。ユーカリの木にわざとぶつかった。単調な風の音以外に、自然が生み出す音はなかった。ロッドがたてた物音だけが、生物によって作られた物音。大自然の中で違和感を与える、乱れた音だ。
一陣の風が、木々を揺さぶりながら峰の間を吹き抜けた。ダンデノン丘陵が風で鳴った。それは、まるで、人類を責める自然の怒りの声のようだ。
突然、ヘリコプターのほうから悲鳴が聞こえた。苦悶の悲鳴、地獄からの悲鳴。悲鳴は丘にこだました。ロッドは殺りくには慣れていたが、その悲鳴を聞いてぞっとした。悪寒が、頭から足の先まで走った。
ロッドは、ヘリコプターのほうへ、落ち葉に足を取られながら走った。
黒いヘリコプターの横に、シェイラが立っているのが見えた。彼女は、血塗られたナイフを、右手にしっかりと握っていた。男が足元に横たわっていた。男のからだがうごめいた。腹部は、胸から下腹まで切り裂かれていた。その裂け目から灰色の腸がはみ出て、血の海に浸っていた。腸はまるでそれ自体が生き物のように、動めいた。
「終ったわ」とシェイラが、誰に言うともなく静かに言った。