Story 7

恋する女のコンプレックス

余りにも人並みな優子

優子は、背が高くもなく低くもない。太ってもいずやせてもいない。髪は長くもなく短くもない。そのルックスをひとことで言えば、美人でもなく不美人でもない。
見かけは、最も平均的な日本人女性だ。街では、大勢の通行人の中にまぎれてしまう。すれ違っても、すれ違ったことに気づくひとはいない。記憶に残らない。
ただし、家族ならば勿論気がつくが、「家族ならば」という修飾語が必要なほどだ。

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年令は29才。

25才くらいまでは、合コンに行っても、ちょっとつきあえるボーイ・フレンドができればいいし、できなくてもいい、という軽い気持ちしか持っていなかった。他の同年代の女性並みになれば、それはそれでいいという、消極的な願望。
本人には、どうしてもボーイ・フレンドがほしいという情熱はなかったのだ。そんなこともあって、余りにも人並みな優子が、男性を惹きつけることはなかった。合コンで同席した男性も、目の前に優子がいても、遠くに坐っている女性と話をするのが、常だった。

どう見ても、優子よりももっと不細工な女性のほうが、親密なボーイ・フレンドを作ってしまった。見かけのコンプレックスが、積極的に行動をしなければ、ボーイ・フレンドを持つことはできない、というあせりを生む。それがプラスになったと考えることができる。

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そんな優子も、25才をすぎた頃からさすがにあせり始めた。一生の生活設計の中で、家庭を持つことが重要な意味を持つようになる。成熟した女性の本能が、子供を持ちたいという気持ちを強くする。
気持ちは変化したが、それまでの見かけと言動までは変わらなかった。29才、結婚はしたくてたまらない。しかし、男をひきつける魅力は、それまでと同じように欠けている。

チャンスはなかった。

女のコンプレックス

そんな優子だ。平均的な女性に特有なコンプレックスも、持っていた。ここでも、他の女性と見分けがつかないほど、完全に普通な女性ということになる。

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たとえば、8割の女性が、自分は平均よりも太りすぎていると、信じている。理屈っぽい男性ならば、統計学的に、8割の女性が平均以上などということはあり得ないと、考える。
女性の判断は、男性よりももっと主観的なことを、男性はつい忘れてしまう。女性にとっては、統計よりも主観のほうが、真実を物語っていることになる。

優子も、こんな体重に関する妙なコンプレックスを持っていた。顔の造作についても、たくさんのコンプレックスと、少しばかりの自信。
コンプレックスと自信の間を気持ちが揺れ動く。ただし、コンプレックスの側にいる時間のほうが長い。
鼻は低く平べったいけれども、目はパッチリ。口は大きく唇は薄いけれども、眉はスッキリ。髪は少しちじれているけれども、肌は色白。

いささか支離滅裂な判断だが、支離滅裂でいられることは女性の特権だ。

突然の恋

ある日曜日、優子は、部屋でひとりでいることが憂鬱になってきた。こんな休日の気晴らしは、街へ出てウインドウ・ショッピングをすること。女性の本能が優子を街へいざなう。

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ウインドウ・ショッピングのために街へ出て、やはりよかった。街は華やかだ。通りを散策する人たちは、誰もが幸せそうに見える。
優子の気持ちは、知らず知らずのうちに浮き浮きと高揚してきた。足取りも軽くなってきた。

ショーウインドウの中の豪華な服を、今すぐ買うことはできないが、それを着た自分を想像することはできる。それだけでも幸せだった。自分が、ショーウインドウの中の夢の世界へ溶け込んでいく。
時間を忘れてウインドウ・ショッピングをしながら、ずいぶん歩いた。

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優子の収入でも手が届きそうな服を売っている、ちょっと気のきいたブテイックを見つけた。窓ガラスの向こうの夢の世界を、しばらく眺める優子。

不意に、誰かが後から、自分を見つめている気配を感じた。優子は、背後の通りを映しているウインドウのガラスに、目の焦点を合わせた。よくみがき上げられたウインドウに、立ち木の多い後の通りが、幻想的な影絵のように映っていた。
優子は息を呑んだ。後で、若い男が自分を見つめている。目鼻立ちのすっきりした美男子、長身、軽やかに着こなした、明るくクールな寒色系のシャツとズボン。

ひと呼吸置いてから、優子は後を振り向いた。直接に見ると、もっと美男子だった。
その男以外には何も見えなくなった。暗闇の中で、その男だけにきらめくスポット・ライトが当っている。街の騒音もどこかへ消えてしまった。優子は、金縛りにあったように動きを止めた。

うるんだようにウエットな瞳で優子を見つめたまま、男がささやくように言った。
「こんにちは」。

優子はあわてて応えた。
「こんにちは」。

そのあと、どのような会話を交したのか、優子は覚えていない。上気したまま、無意識に言葉を発していた。

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男の低い声が優子の胸を揺さぶった。
「あなたはとても素敵だ。今日は忙しいので、今度またゆっくりとお会いしたい。来週の日曜日10時に、喫茶店のミッシェルで会ってくれませんか?」。
男が別れる時に言った言葉に対して、優子の答は「はい」以外にあり得なかった。

冷静になるとよみがえるコンプレックス

帰路は、どこをどうたどったのかも分からなかった。家に戻って、慣れ親しんだ室内の光景を見てから、少し冷静になった。
優子には疑問が湧いてきた。自分は特に取りえもない女なのに、なぜあんなに素敵な男性が、興味を示したのだろうか?
こう考え始めると、女のコンプレックスに火がついた。高揚感が逆転し、高揚が高かった分、気持ちが大きく反対の方向へ振れた。

最近はいい男性を見つけようと、自分なりに努力をしてきた。ところが積極的に努力をすればする程、男性の影は遠ざかる。素敵な男性に対する一方的な恋を、たくさん失ってきた。自信があるはずがない。

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優子は鏡をじっと見つめた。そこには、いつもの見なれた顔が映っていた。女性にとっては、最大の武器になるはずの顔。
自分の顔に対する、自信を失った優子の評価........太い髪がまっすぐに立っている。狭い額が横に長い長方形のように見える。眉はベタっと寝そべっている。目はどんぐりのよう。まつげはちょんと短く突き出ているだけ。鼻はぺしゃんこ。薄い唇は糸のようだ。顎は角ばり突き出ている。顔色は悪い。
優子の顔は、客観的に見れば、優子が考える程、しっちゃかめっちゃかではない。よく見れば、それなりに優しい女の色気を漂わせている。

しかし、思いがけない恋に襲われた女は、すっかり自信をなくしてしまった。こんな私が、あの素敵な男性を、本当に惹きつけたのだろうか、と。

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それから日曜日まで、優子は、自分の見かけを少しでもみがき上げることしか、考えていなかった。ファッション雑誌をたくさん買ってきて、次々にながめた。けれども、恋の不安に落ちこんで、すっかり自信をなくしてしまった優子には、どれも自分に似合うとは思えなかった。
美女のファッション・モデルにしか似合わない服装、そしてメークアップ。

嫉妬する真理のアドバイス

優子は、ついに一番親しい友だちの真理を、訪ねることにした。友だちから、メーク・アップについて客観的なアドバイスを得たかったのだ。

真理も29才。ふたりとも、結婚をしたいにもかかわらず、結婚ができないでいるので、何となく、親しい友だち関係になってしまっている。おしゃべりをする時に、似たような境遇の者は関心が同じなので、話題にはこと欠かない。

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ところが、真理は、優子があの美男子と親しく話をしていた時、すぐそばを通りかかったのだ。男しか見えていなかった優子は、それに気づかなかった。真理は、ゆっくりと散策しているように見せかけながら、ふたりの会話を、身近でかなり耳に入れてしまった。

優子には、何が起こったのかを真理に話す気はなかった。失敗をすれば、表面的には同情しているように見せかけるだろう。けれども、本音では、同じ境遇の優子の失敗に喜ぶことは、間違いがない。失敗する可能性がとても大きい恋のことなど、知られたくない。

真理は、自分がふたりを見たことを、優子に話す気はなかった。優子が、あんなに素敵な男性と、あんなに親しく会話をするなどということは、許しがたい。真理はとても不愉快だった。

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恋する女の上気した頬を見て、真理の心の中の黒い嫉妬心が、どんどん大きくなった。
自分には全くチャンスがないのに、なんでこんな普通の女が、あんな美男子を惹きつけたのだろうか?こんな関係は壊れてしまえばいい.......しかし、そんな気持ちを真理はしっかりと隠した。

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「私、気分転換にちょっとメークを変えたいのよね」と、優子が言った。

真理は、いつもの日常会話と同じように、知らん顔で応えた。
「ヘーえ、それはいいことよね。女は時々変身しなくちゃ」。

「私、どう変えたらいいかしら?」。

真理は、優子のコンプレックスと、少しの自信をよく知っていた。どう言えば、優子が真理の言った通りにするのかも。
コンプレックスについては、全く正反対のことをするように、強く言えばいい。自信のあるところは、そこをもっともっと強調するように、アドバイスすればいい。
真理は、自分が言った通りにすれば、優子はとても魅力的な女性に見えるようになると、何度も繰り返した。

恋する女の不安心理の中にいる優子。真理のアドバイスは、まさに優子が、心中で聞きたいと思っていた通りの指摘だった。
自分の顔の造作の中で、悪いと思っているところは、全く正反対に見えるように、メーク・アップをする。自信のあるところは、それをもっともっと強調するように、メークする。

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真理のアドバイスを聞いて、優子には自信がついた.......大丈夫、私だって、とても魅力的な女になれる。

悲劇の結末

それから日曜日まで、優子は鏡の前に坐りきりだった。最後に、真理のアドバイス通り、完璧なメーク・アップをすることができるようになった。

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そして日曜日がきた。よく晴れている。木々の鳴る音がさわやかだ。

優子は遅すぎもせず早すぎもせず、ちょうどいい時間を見計らって、ミッシェルに入った。
あの男が、窓際の席に坐っていた。

男は、最初、入ってきた優子を優子とは認めなかった。別人のようになっていたからだ。優子が席に近づいて、「こんにちは。お待たせしましたか?」と言った時、その声から、やっと目の前の女が優子だと気がついた。
男の肌に鳥肌が立った。顔が青ざめた。優子の顔が、余りにもグロテスクだったからだ。

髪は、掃除をちゃんとしない、小鳥が住んでいる巣のようだ。色はブロンド。額は剃り上げたことがはっきりと分かる、三角形になっていた。眉は、剃ったあとにまっすぐにペンシルで描いてある。アイ・シャドウは幅広く横に長い。つけまつげは突き出た日よけのよう。鼻は高く見せようと、両側は黒く、真ん中だけが白く塗ってある。ベタっと厚く塗られた赤い唇。陶器のように白く塗り上げた顔。形に自信のある耳に注意を向けさせようと、重い大きなイヤリングをぶらさげている。
そして、自信のある白い歯をよく見せようと、唇を無理に上下へ引っ張っている。

小説 2008/11/23

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