Story 18

終りなき夏

メルボルン滞在中に、英語で書いた「終わりなき夏」の第1章に相当する部分が、メルボルンの雑誌に掲載されました。それで、舞台設定も登場人物も、日本とは無関係になっています。英語版は、 小説19「Endless Summer」 です。日本語版は、英語版よりも長くなっています。

英語は、文学が好きなユダヤ系のオーストラリア人女子大学院生に、直してもらいました。彼女はこの小説をとても気に入ってくれ、文法を超えた小説の深化の視点から、英語に手を加えてくれました。ユダヤ人の心理に興味のある方は、ユダヤ人にとってのこの小説の意味を考えて下さい。

小説の背景の白黒画像は、雑誌に載ったこの小説の最初のページです。

第1章 絶望の序曲

ポート・フィリップ湾には、灰色の影がたゆとう海水が満ちていた。メルボルンの街は、浅い湾の水底に横たわっていた。崩れかけた不ぞろいな高層ビルの先端が、老人の灰色の歯のように陰うつな海から突き出し、街がかつてそこに存在していたことを、示していた。

放射性物質で汚れた、核戦争の名残りの熱い風。南の湾から東の丘陵地帯へと、吹いてくる方向をゆっくりと変えた。谷間に淀んでいた重い空気が、丘陵を這い降りて湾をおおった。燃える原野から流れ出した濃い煙が、分厚い層になって押し寄せ、湾いっぱいに広がった。視界は再び閉ざされた。

* * * * * * * *

ロッドは、目と喉の痛みに耐えながら、水際を歩き続けた。ダンデノン丘陵の突端に、海面が上昇したことによって最近できた海岸。まだ山肌の名残りを残していて、砂浜はなかった。薄い油の膜に被われた海のうねりが、くだけることもなく海岸を洗った。破れた新聞紙、ページがめくれた雑誌、コンピューターのディスプレイ、タイヤの破片、衣服の断片、裂けた人形...はかない文明の痕跡が、水際に突き出た岩と倒木の間に散乱していた。

倒木が折れ重なって層を作っている箇所では、歩行は困難だった。焼けた骨のように見える木をゆっくりと踏み越えながら、ロッドは歩いた。枝の折れる乾いた音が、あたりに響いた。燃えかすのような木の葉や草が顔に貼りつき、黒く塩からい汗といっしょに流れ落ちた。右肩に下げたライフル銃が重い。自然に右肩が下がってしまった。

* * * * * * * *

突然、ロッドは、誰かが自分を見つめているように感じた。からだ中の筋肉が緊張した。瞬間的に、倒れた木の陰に身をひそませた。あたりを注意深く見回した。

だが、目に見える範囲の、小さな灰色の世界の中で動いているものは、たなびく煙とうねる波だけだった。ロッドを見つめている者などは、誰もいない。

山の斜面は、立ち枯れたように見える、密集したユーカリの木におおわれていた。樹陰の闇に動くものはなく、静寂が保たれていた。山の斜面の上部は、濃い煙のベールの中に消えていた。人は勿論、動物も昆虫もいなかった。生命が存在しない世界だ。

ロッドは頭を振った。デラが去ってから、時々、非常に神経質になることがあった。

ロッドは、デラとの過去に想いをはせながら、丘陵をさまよい歩いていた。決して戻らない過去。

ダンデノン丘陵がまだ緑に被われていた時、ここでロッドはデラに出合った。ここで彼らは愛しあった。それは過去のことなのに、まるで現在のことのように、はっきりと思い出すことができた。しかし、他のことは、ほとんど何も思い出せなかった。デラと過ごした時が、他の何よりも輝かしい過去なのだ。デラとの過去は、記憶の暗闇の中で、スポットライトを浴びたように輝いた。

デラは、昼間、木々や草の上を吹き渡ってくる涼しい風に愛撫されながら、太陽の光の下で愛されることを好んだ。

ユーカリの薄い灰色の幹の間を縫いながら、デラの裸体は樹陰でかろやかに舞った。陽光が無数の柱となって、木々の濃い葉の茂みの間から降り注ぎ、彼女のからだが発光した。その瞬間、デラのからだから放射された白い光の前に、樹林が色あせた。ロッドはデラをつかまえると、厚く生え茂った草の上に投げ出した。デラはかすかに笑った。ロッドは、彼女の冷えた肌の下に、熱く脈打つ血の流れを感じた。間もなく、彼女は喜びにあえぎ始めた。木もれ日が、彼女の紅潮した顔に映えた。

* * * * * * * *

ロッドの想いは過去をさ迷った。

『デラ、どうして死ぬほかはない長い眠りを選んだのだ?再び目覚めるとは、とても思えない。成功するはずのない人工冬眠。絶望のマイナス150度。死の冷たさ。たとえ成功したとしても.....なぜ、200年後にやってくる絶望の未来を選んだのだ?きみは行く時に、おれたちの山小屋のテーブルの上に残した手紙を読めば、全てが分かると言った。きみは去るその時、まったく違う女、今までのデラとは違う女になっていた。きみは、おれの知っているデラではなかった。それが分かった時、きみが行くのを認めたのだ。しかし、なぜ?もうすぐ、その答を知ることができるだろう』

ロッドの想いは突然に停止した。水際を同じ方向へ歩いている灰色の影が、煙のベールの中に現れたのだ。

アクションが思考に取って代わった。ロッドは右手に銃をつかんだ。銃身は、熱を吸収して熱かった。ロッドのからだが、攻撃前のネコのようにしなった。それは、ごく日常的なアクションだった。

からだ中の筋肉が緊張し、血管にアドレナリンが満ちた。その時、放射性物質で侵されたからだの疲労は、どこかへ吹きとんでしまった。たった一つ、閃光のような思いが意識を支配した。
『あいつを殺せ。肉を食うのだ』

ロッドは、この2、3日、ほとんど何も食べていなかった。3日前に、死につつあるカモメを食べたのが最後だった。その鳥は、水面で翼を弱々しくはばたいていた。浅瀬だったので、簡単につかまえることができた。その汚いカモメは、以前は広大な空を、稲妻のように飛び回っていたのだ。

生きているカモメやカンガルー、あるいは他のどのような動物よりも、動きの鈍い人間を狩るのは簡単だった。その人間の数も急激に減ってしまった。今や人間を見つけるのは、極めて困難だった。1ヵ月前、まだデラがここにいた時、さまよい歩く最後の人間を見かけた。距離が遠すぎたので、接触することはなかった。

飢えと殺りくの喜びが、彼を激しく突き動かした。

* * * * * * * *

水際に横たわる雑多なくずを踏めば、音がする。音をたてないように、細心の注意を払いながら、ロッドは岩から岩へと歩を運んだ。煙にまぎれた一つの影となって、ゆっくりと前方の人物へ近づいていった。距離を縮めるにつれて、前方を歩く姿が明瞭になった。

右手に黒いライフル銃を持った若い男だ。ロッドのように、薄汚れた世界をさまよう一匹狼。極限状況下で、今まで生き延びてきた男。長いブロンドの髪が覆いかぶさっている広い肩が、男のタフさを物語っていた。感謝すべきことに、ロッドはその男の背後、しかも風下にいた。

男から30メートル。汗ばんだ両手の指で、斜めにかまえた銃をしっかりと握り締めた。一息吸うと、岩から太い倒木に跳び乗った。そして、ブロンドの髪の頭を見下ろした。

ロッドは叫んだ。
「おい、お前!」

その若い男の動きはすばやかった。ロッドが言い終える前に、大きなからだが沈んだ。男は振り向きざまに銃を撃った。男の動きはすばやかったが、状況はロッドに有利だった。男の熱い弾丸が左肩のそばを通り過ぎる前に、ロッドの38口径ライフルから発射された弾丸は、犠牲者の左胸を打ち抜いていた。

表情を変えることもなく、大きく開いた目でロッドを見つめたまま、男はなぎ倒された。そのまま、汚い海へ銃を持ったまま転がり込んだ。上半身が暗い海に消えると同時に、海面からコカコーラの空き缶が飛び上がった。血が薄い海水の層を破って吹き出し、水と混じりあった。銃声は厚い煙を突き破って全ての方向へ広がり、海を渡り丘陵にこだました。すぐに血の泡は消え、静寂があたりに戻った。

ロッドは満足した。食事への期待とともに、アドレナリンの分泌が減って、全ての筋肉が弛緩した。銃を肩にかけると、腰からナイフを引き抜いた。乾いた靴音を響かせて、倒木から岩の上に跳び降りた。

水から突き出ている男の足に手をかけようとしながら、ロッドはふと空を見上げた。野獣のような本能が、警告を発したのだ。

灰色の空に暗赤色の太陽がかかっていた。染みのような黒い点が、不吉な太陽の面を通り過ぎるのが見えた。緊張が再びロッドを襲った。瞬時の余裕もなかった。彼は、海岸から深い樹林へ、斜面を一気にかけ上がった。

たちまちエンジンの音があたりに響き渡り、地面を揺るがした。狩猟警察の黒いヘリコプターが、ロッドのほうへまっすぐに飛んできた。ユーカリの重なった枝を通して、ヘリコプターの脇腹に、まるで書いたばかりのように白い、『警察』という大きな文字が見えた。

山肌から海面へと這うように流れていた煙が、激しく舞い上がった。ヘリコプターは波打ち際に近づき、ロッドの頭上で一回転すると、再び煙のベールの中へ消えた。エンジンの響きは、丘陵の反対側で消えた。そして、聞こえるのは、再び単調でかすかな波の音だけになった。

彼らは、丘陵の奥へ通じるロッドの退路を絶ったのだ。眼前にはポート・フィリップ湾、後には敵。

ロッドは波打ち際から斜面を登り、最もありきたりなかん木の茂みに、中腰になって身を隠した。身じろぎもしないで、一本の木になった。動いているのは煙だけ。波の音はどこか遠くへ消え去り、世界は完全な静寂に包まれた。そのまま長い時間が経過したように思われた。

* * * * * * * *

3つの大きな黒い影が、斜面の上方の木々の間の、煙のベールの中に現われた。倒木と下生えを踏みつけながらも、男たちは物音をたてなかった。彼らは、人狩りと殺人のプロだった。黒い戦闘服を着、横に並び、互いの距離を40メートルに保って、斜面を流れるように降りてきた。

最左翼のロッドに最も近い警官が、上からまっすぐにロッドの方へ進んできた。黒いヘルメットの下の四角い顔が見えた。影になった無表情な顔は、陰うつそのものだった。

ライフルを腰だめにしたまま、ロッドはこの男を撃った。重い発射音と同時に、ロッドの腕と肩に硬い衝撃が走った。木屑と木の枝が飛んだ。男のからだがなぎ倒されて、地響きをたてた。他の2つの影が、瞬時に茂みに沈んだ。

ロッドは、立て込んだユーカリの木の間を縫い、斜面を横切り、丘のいただきへ向かって一気に走り始めた。後方で、銃声がたて続けに鳴った。弾丸が追ってきた。弾丸は空気を切り裂いた。枝が飛んだ。木の幹が削られた。ロッドは枯れ葉に滑った。針のように鋭い枝の先が、顔を打った。血が顔からしたたり落ちた。

丘のいただきまでの道は長かった。ロッドはあえいだ。心臓が激しく脈打った。いただきを越えた時、まるで一生走り続けてきたような疲労を感じた。

いくつかの局地的な核戦争に続いて、世界最終核戦争が勃発することを、誰もが予想するようになった時に、フェニックス・プロジェクトが計画された。そのプロジェクトは、現在の放射能に汚染された地球から、未来の清浄な世界へ、人々を移すことを目的とした。

狩猟警察の情け容赦のない監視のもとに、巨大な人工冬眠施設が作られた。未来の地球で目覚めるはずの、5、000人を収容する半球形の灰色の墓標は、メルボルンの北100キロメートルのところにある、セイモーの町の近くに建設された。そこは、オーストラリア大陸の乾燥した内陸部と、比較的雨の多い海岸沿いの平野を分ける、分水嶺だ。

巨大ドームを完成させるために、狩猟警察は、否も応なく労働者を狩り集めた。核戦争は世界の一部でまだ続いていた。ドーム建設の最後の段階で、プロジェクトの完成を急がなければならなかったが、働き手は余りにも少なかった。加えて、衰弱した人々は次から次へと死んだ。重労働が死を急がせた。ほんの一握りの労働者しか、このような状況下では生き残れないように思われた。

狩猟警察は、廃虚や森、そして丘陵から人々を追い出した。抵抗すれば殺した。しかし、瞬間的にではない。人々は、死によって解放されるまで、拷問によって長い間苦悶した。多くの者が、死による解放の前に狂ってしまった。

フェニックス・プロジェクトが完成した時、冬眠施設に入ることを許された警察官はわずかだった。狩猟警察官の多くは、殺人が唯一の生きがいになったキラーとして、この世界に残った。

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『フェニックス・プロジェクト!』ロッドは思った。『なんと馬鹿げた、人類の最後の悪あがきだ。人口冬眠の十分な研究も経験も準備もなく、追い詰められた人間がその場しのぎで作った施設。そんなものが機能するはずがない。施設に入った5、000人は、腐肉になるだけだ。たとえ、奇跡的に人工冬眠が成功したとしても、放射能に侵されてひどく病んだ人間たちは、文明の痕跡もない、200年後の砂漠か密林の中で目覚める。どんな未来を持つというのだ?放射能で遺伝子に変異が起こっている。ホモ・サピエンスを存続させようとすれば、かたわの赤ん坊が生まれる。なんというグロテスクな未来だ!人類は、最後の核戦争のあと、地球から除かれなければならないのだ』

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最初の核戦争は、数十年間に渡る民族間の争いのあと、2019年の真夏に、ユーラシア大陸の辺縁部で突然に起こった。異なる民族が入り乱れて住んでいる、コーカサス山脈周辺の地域的な紛争が、どのようにして核戦争に至ったのかを、正確に知ることは誰にもできなかった。

それは、むしろ小さい戦争だった。戦場は限られ、核砲弾のみが使われた。しかし、戦場は限定され、被害者の数も限られていたが、全世界へ与えた衝撃は深刻だった。

誰もが、核兵器を簡単にあやつることができる。そのような核兵器が、間違いなく既に全世界に広まっている。

どの国の人間も、核兵器による敵の攻撃を恐れた。世界のどの国においても、人々は敵を持っていた。まるで、敵を持つことが人間であることの証しであるかのように。

人々は神経質になった。緊張が世界に広がった。緊張を利用して、自分の権力を強化しようとする政治家や独裁者が現れた。ヒステリックなデモが、地球上のいたる所で頻発した。多数派住民とは見かけが異なる、移民や少数民族が標的になった。報復が報復を呼ぶ、報復の繰り返しが頻発した。平和主義者は少数派となり、分断され、消え去った。

増幅された人々の憎悪が、世界最終核戦争の引き金を引くことになった。

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どの国にも、戦争を業とする一群の人々がいた。特に、アメリカ、中国、ロシアなどの大国の軍官業複合体は、裏の政府として、表の政府を圧倒する巨大な力を持っていた。軍需産業が、国家経済の生殺与奪の権を握っていた。軍隊が、最も安定した膨大な雇用を産み出していた。不況下でも削減されることのない、膨大な軍需予算は、官僚の采配下にあった。

軍官業複合体は、自己の存続のために、公に認められた殺りくを必要とした。戦争だ。戦争がなければ、この複合体の存続を正当化できなくなる。

衆愚をコントロールするのは簡単だ。政治とマスコミを動員して、憎しみを増幅させる。敵に殺される前に、敵を殺すという論理で、人々の思考を停止させる。

軍需産業は、核兵器を含むあらゆる種類の兵器を売った。敵にも売った。兵器と兵士を消費させ、実需を作り上げるために、裏の政府は表の政府を自在に動かした。破壊の種子を世界中でまき続けた。世界のあらゆる地域で戦火を広げた。

その結果はハルマゲドンになる。戦争を業とする者たちをも、破滅させる。人類は滅亡する。危険なパワー・ゲームの結果が明瞭になった時には、もはや誰にも人類破滅へのプロセスを止めることはできなかった。

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狂気が充満した世界で、ハルマゲドンが避けられないことを悟った時、冷酷な計算のもとに、他国の軍官業複合体と裏で内通していた者たちは、自分たちの生き残りを画策することになった。いくつかの政府を動かして、人工冬眠施設を作るのだ。関わったのはごく少数の人間だったとはいえ、その計画は国際的な協調のもとに実行された。低温凍結の専門家と冷凍施設の技術者が、秘密のうちに、世界中からオーストラリアへ集められた。その計画は、食肉凍結保存施設の建設を参考にして始められた。

休みのない小競り合いが、最終核戦争へ発展する前に、、冬眠施設の建設は、あたりかまわない突貫工事に入った。高度の訓練を受けた特殊部隊が、いくつかの国から集められ、狩猟警察に編入された。彼らは完璧な武装集団で、どのような局地戦にも勝つことができた。狩猟警察は、小さな政府をも圧倒する強大な力を持った。そして巨大な冬眠施設の建設を監視した。

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最終戦争は、最初の核戦争の1年半後に、中東で勃発した。人々が気づいた時には、既に数多くの核ミサイルが、砂漠の上を飛びかっていた。最初に核ミサイルのボタンを押したのはどこの国の誰かは、極度の混乱の中では誰にも知る由はなかった。

中東から、何かの拍子に、9基のIRBMがヨーロッパへ発射された。モスクワ、キエフ、ハンブルグ、ロンドン、リスボンが、核爆弾によって破壊された。即座に、ロシアの基地から、8基のICBMが中東へ、15基がアメリカへ、4基が日本へ、5基が中国へ飛んだ。さらに、12基のIRBMが西ヨーロッパを破壊した。同時に、数えきれない程のICBM、IRBMが、世界中のアメリカの基地から発射され、戦略爆撃機がロシア、中国、中東への爆撃を開始した。中国も負けじと、各国へ核ミサイル攻撃を始めた。

それから、世界は完全な混沌の中に投げ込まれた。破滅の巨大な雪崩れを止めることのできる指導者は、世界のどの国にもいなかった。政府の指示は混乱の渦に呑み込まれ、一つとして末端まで届くことはなかった。

核爆弾がこの戦争でいくつ爆発したのか、誰も知らない。人類が知ることは決してない。数限りない核爆発の結果、北半球の人間はほとんどが死に絶えた。核爆発によって瞬間的に死んだ人間は、幸運だった。からだ中の皮膚が無残に焼けただれたまま、数日間も数週間も生き延びた人間がいた。これらの人たちは、もの狂おしい地獄を経験した。爆発地点から離れたところにいても、空中を漂う高濃度の放射性物質にさらされ、生きたまま腐った人間は数知れなかった。

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7個の核爆弾がオーストラリア大陸で炸裂した。最初の核ミサイルは北から飛んできて、シドニーの周辺に住む300万人を蒸発させた。南半球の被害は北半球と比較すれば小さかったが、北の高度に汚染された空気は、南へと移動した。空気は、熱帯地方の高気圧帯の壁を通過して、ゆっくりと南へ広がった。死の影は、地球全体に静寂が戻っても、消えることがなかった。

メルボルンでは、街が海に飲み込まれる前に、ほとんどの人が、殺されるか自殺をするかで死んでいった。そこでは、北半球の都市におけるよりも、もっと残酷な光景が繰り広げられた。街は戦争によって直接に破壊されることはなく、また人々は比較的健康な状態を保っていたが、この世の地獄になった。メルボルンは、狂気、憎悪、殺りくによって崩壊した。

誰も他人を信じなかった。誰もが攻撃されることを恐れた。1分でも長く生き延びるために、ほかの人間を攻撃した。誰もが喜んで殺人を犯した。その時、人間はけだもの以下の存在になった。

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大量の塵挨に被われた地球は、温室効果によって暖まり、両極の氷河が溶けた。海が陸地に侵入した。核戦争とともに不快な夏が始まり、終わることはなかった。

重い木製の山小屋のドアーをうしろ手に閉めると、ロッドは大きくあえいだ。呼吸をするのが難しかった。苦い胆汁を吐いた。顔が原野の火事のように燃えた。疲れた。本当に疲れた。めまいがした。銃が床に落ちて、乾いた音をたてた。

薄暗い部屋には、原野から吹き寄せる火事の煙が淀んでいた。ロッドは、煙のにおいに混じった、かびのにおいを嗅ぐことができた。窓の重いカーテンを少し引いた。窓から灰色の光が忍び込んだ。その窓を通して、外の世界がぼんやりと見えた。そこから見えるのは、枯れた木々に被われた丘陵の斜面だけだった。空は丘陵の上にあり、ロッドが立っているところからは、見えなかった。

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視線を窓から室内へ移した。四角い白い封筒が、暗い部屋の中央にある、木製のテーブルの上でかすかに輝いていた。彼はテーブルに近づいた。ロッドとデラはそこに坐り、コーヒーを飲んだのだ。香ばしい入れたてのコーヒーの香りの記憶が、鼻の奥に漂った。ロッドは息を小さく吸った。

デラの微笑み、デラの吐息.....ロッドは封筒を手に取った。封筒の中にあった便せんを取り出した時、それはまるでデラであるかのように、かすかにささやいた。

その手紙は、疑いもなくデラによって書かれたものだった。繊細だが強い線が、便せんから飛び出した。文字は、スポットライトの光を浴びているように、鮮明に見えた。

誰よりも愛しいロッドへ

私は未来へ行きます。あなたが私に与えてくれた、尽きることのない愛に、深く感謝しています。

私は、あなたが住んでいる世界で、あなたと一緒に、あなたが望んでいるように死にたいと、思っていました。あなたのもとを去って、あなたなしで一人で生きようと思ったことは、一度もありませんでした。けれども...愛しいあなた、私は生き延びるために、未来へ行く決心をしなければならなくなりました。たとえ、あなたがおっしゃるように、この賭けに勝つチャンスはほとんどないとしても。その少ないチャンスに賭けなければならないのです。

それは、私のためではありません。私たちの赤ちゃんのためなのです。私は妊娠しています。赤ちゃんをお腹に持っているのです。私たちの子よ。

『デラは妊娠したのか?子供を産むのか?』ロッドの思考は一瞬停止した。『そんなことはありえない。あってはならない。デラとおれ、汚染された両親がかたわの子を産むんだって?冗談じゃない。デラは、人類が置かれている状況を、本当に知らなかったのだな』

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あなたは私の言うことを信じないし、全く同意もしないことは分かっています。それが、あなたに何も言わなかった理由です。

かわいそうなロッド!人類の本性は残酷で、それだから絶滅したほうがいいと、信じることによってのみ、あなたは今を闘いながら生き、自分の罪を忘れることができるのだわ。

いいえ、核ミサイルの発射ボタンを押したのは、あなたの罪ではないわ。神様がご存じよ。

ロッドは、核ミサイルの発射ボタンを押したのか?彼は、泥で汚れた手のひらをじっと見つめた。

核戦争の前の記憶は、灰色の忘却の霧に包み込まれていた。しかし、軍隊で働いていたのは確かだった。後方支援──情報を集め解析するような仕事──複雑な機械を使って──ロッドは技術者だった。そのおかげで、人工冬眠施設へ入る権利を、当時の混乱の中で、デラに都合できたのだ。

便せんを握ったまま、記憶を注意深く辿った。頭痛がする程、過去へ埋没していったが、ミサイルの操作盤の前に座っている自分を、見つけることはできなかった。そうはいっても、記憶の一部には明瞭な空白があった。その空白の存在が、心の平静を失わせた。ロッドは、過去を思い出す努力を止めた。

* * * * * * * *

誰よりも愛しいロッド、私はあなたのいない未来へ行きますが、決してあなたを忘れることはありません。もしも私たちの赤ちゃんが男の子だったならば、あなたの名前を付けるわ。

さようなら、あなた。さようなら、あなた。私の気持ちはいつもあなたと一緒よ。私の気持ちが離れることは、決してないわ。

永遠にあなたのもの、デラ

最後の文中の文字は崩れ、小さくなり、よじれていた。いくつかの文字は、白い紙の上でにじんでいた。それは涙の痕跡なのだろうか?デラの涙?ロッドのために流した涙?

「デラ、きみはもうおれのものではない」

自分の呻きが、まるで他人のもののように聞こえた。心が氷のように冷えた。今や、デラは完全に離れてしまったことを悟った。

その手紙をテーブルの上に置いた。薄い便せんは、空気の流れに押されて動いた。顔を上げ窓の外を見ると、煙の層が渦を巻いていた。外では風が強まり、丘の死んだ木々が、記憶のどこかにある、緑色の葉を付けた木々のような音を立てていた。

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この長い夏は、いつ終るのだろうか?

小説 2011/2/17