Story 16

女の直感

会社のホープ・ジョン

フォード以来、世界市場で、絶対的な覇権を握ったアメリカの自動車産業。ところが、そこでも、アメリカは日本に追い抜かれてしまった。世界の中で優位に立っているアメリカの製造業は、今や医療機器と宇宙・航空産業くらいしかない。

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ジョンが仕事をしているメディカルロジック社は、ロスで、高性能の手術用ロボットを製造していた。
手術用ロボットでは、アメリカのシェアは世界でダントツの1位だ。だからジョンの会社が安泰というわけではない。何しろ1番手に大きくリードされた、後発の2番手企業なのだ。少しでも油断をすれば、2番手以下を叩き潰すことにかけては、情け容赦のない、トップ企業レオナルド社の軍門に下ることになる。

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手術用ロボットは、コンピューターで完全に制御されており、人の手の限界を越えた手術能力を持つ。マイクロレベルの精緻な手術が、可能なばかりではない。ネットを通して、医師が、他国に住んでいる患者の手術をすることもできる。

最先端の精密加工技術と、プログラミングの極を極めた芸術品。開発には膨大な資金を必要とする。しかし開発に成功すれば、高価な手術用ロボットから、企業は莫大な利益を得ることができる。

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2番手企業が、1番手企業に追いつき追い越すためには、開発が最も重要な鍵になる。ジョンは、メディカルロジック社の存亡が掛かった、開発部門の部門長だった。当然のことながら、会社への責任は重大になる。

日本で起きた会社存亡の危機

ロスの強い陽光が、紫外線ブロック処理された窓ガラスを通して、部屋へ入り込んでいた。窓を背にして、デスクの横に立っている社長のロバート。顔は影になっていたが、顔の筋肉全体が緊張している様子は、明瞭に読み取れた。
「ジョン、我が社の世界戦略にとって、日本が最重要国であることは、よく知っているね」

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アメリカの主要な病院の多くは、レオナルド社の手術用ロボットを、既に導入してしまった。新規参入したメディカルロジック社が、シェアを拡大するのは、不可能ではないにしても、極めて困難だ。これに対して、日本の病院のロボット導入は遅れている。

日本の医療機器市場は、アメリカ、EUに次ぐ世界第3位の規模になっている。ところが、国内の医療機器産業の基盤は弱く、需要の半分近くを輸入に頼っている。

CT、MRI、PETなどの高価な高度先端医療機器を、日本人は特に好む。導入している病院の割合は、国別で比較すると、日本はダントツの世界トップになる。
新し物好きで、どれほど高価な医療機器でも、競争して導入する日本人。価格は売り手の言い値通りになる。まさに売り手市場だ。これほど魅惑的な市場は、世界には他にない。

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特に手術用ロボットのように、これから市場が拡大する分野で、日本が持つ意味は極めて大きい。アメリカでは2番手のメディカルロジック社が、日本では、ハンディキャップなしで、レオナルド社と同じスタートラインに立っている。

価格については不満を言わない日本人。会社の成長に必要な、莫大な利益を上げられる国日本。しかし製品の質や使い勝手、それに安全性については、世界で最も口うるさい顧客だ。
この辺りの情報を、国際マーケティング部門から、ジョンは大量に得ていた。それらの情報を、日本向けの製品開発に生かしてきた。

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ジョンは、自分の昇進にも給与にも、生殺与奪の権を持っている、若い社長を見つめた。濃紺色のTシャツを着、ジーンズをはいた社長のロバート。自由奔放な思考で、他人を圧倒する。ジョンにとっては、ビジネススーツに身を固めた、どこにでもいる堅物の社長よりも、もっと危険な存在だ。

そのロバートが、無表情になっている。これは、怒りを表現しているときよりも、彼がより危険な状態になっていることを、示していた。

ジョンは言葉を選びながら、注意深く言った。
「ロバート、私がその辺りのことを完璧に心得ていることは、よくご存知と思います。今日本で販売しているタイプOR-01Aは、日本人の全ての要求を満たすことを目的に開発した、我が社の誉れと言える製品です。マーケティング部門、開発部門、製造部門が一心同体になって創り上げたロボット。日本でトップシェアを取れると、確信しています」

ロバートの表情に、一瞬影が走った。社長の表情を読み取ることに、全神経を集中していたジョンは、その影に気づいた。

「ジョン」と、ロバートの言葉が重くなった。「先程、東京支社の雄二から報告が入った」

ロバートの言葉が止まった。ジョンは何も言わずに、社長の次の言葉を待った。

「東都大学病院で事故があった。OR-01Aが異常な動作を起こして、患者が死亡した」

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この言葉を聞いた途端に、一瞬、自分の人生に関する全ての思いが、ジョンの頭の中で渦巻いた。その渦巻きの中に、メディカルロジック社の中で、トップに昇りつめる夢があった。あるいは、ベンチャー企業を自ら起こし、医療機器産業の風雲児になるという夢も、あった。それらの夢が、突然崩壊の危機に瀕している。

また渦巻きの中には、妻のアイリーンの姿があった。女性特有の気の強さと、疑い深さを持っている。しかし、全力を挙げて自分を愛してくれる妻。ジョンの成功を、身近で最も喜んでくれる存在。人生の伴侶が、安定した生活を送りながら、自分という存在を認めてくれるからこそ、仕事に全エネルギーを注ぐことができる。

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驚きの表情を、大げさに表わす時間的な余裕は、ジョンにはなかった。まず何よりも、会社存亡の危機に直結する問題の解決に、全力を上げる覚悟を、ロバートにアピールしなければならない。同時にそれは、研究者として生きてきた自分のプライドを、叱咤激励する言葉にもなる。
「詳細な情報を教えてください。私が責任を持って、持てる力の全てを使い、その問題の解決に当たります」

深夜まで続いた事故の分析

ロバートは、ただちに東京の雄二をテレビ電話に呼び出した。丸顔の雄二の顔が紅潮していることは、画面からすぐに読み取れた。日本支社長である、自分のポジションがかかった大事件だ。雄二の興奮が、ひしひしと伝わってきた。

雄二は、抑揚のない日本人特有の英語で、早口にしゃべった。
「手術を担当したドクター岸は、ご存知の通り、日本でトップの脳外科医です。手術は、脳の手術としては比較的簡単な、大脳皮質部からの腫瘍摘出でした。ところが、コントロールが効かなくなったロボットのメスが、脳の深部へ突き進んだのです。心臓や肺を機能させている延髄を、断ち切りました」

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雄二の言葉をさえぎれば、不幸なできごとをさえぎれるとでもいうように、ジョンが割って入った。ジョンの言葉は強かった。
「ドクターは、手術前に、手術範囲の情報を正確に入力しましたか?安全装置のスイッチを入れましたか?あらかじめインプットされた、手術範囲を大きく越えるような動きは、安全装置のスイッチが入っていれば、ロボットがすることはありません」

複雑なコンピューター操作が苦手な日本人。開発の段階で、操作を簡単にすることに、ジョンは全力を上げた。その結果、OR-01Aは、操作がとても簡単な手術用ロボットになった。技師に頼ることなく、医師自身が、全ての操作をできるようになっている。

ジョンの質問をあらかじめ想定していたように、雄二はすぐに答えた。
「ドクターは、マニュアルに書かれていた通りに、全ての操作を行なったと言っています。ただし...」と、雄二は言葉を切った。「ドクター岸が高齢なことを、考慮に入れなければなりません」

少し自信がついたジョンは、自分の体制を立て直すための言葉を吐いた。
「OR-01Aのコンピューターに入っているデータを、今送ってください。全て解析してみます」

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送られてきたデータから、すぐに結論を出すことはできなかった。操作ミスの可能性を排除することも、プログラミングエラーや、極微の部品の損傷の可能性を排除することも、短時間の大雑把な解析からはできない。全く新しい製品にありがちな、ブラックボックスが存在することを思わせた。
このようなブラックボックスは、人命に関わる重大なものになる。同時に、開発者であるジョンの人生を左右するようなものにもなる。

その日、ジョンは会社に深夜まで残り、必死になって仕事を続けた。何しろハードの製作には台湾の企業、プログラムの構築には、インドの企業が関与しているのだ。社内の関係者との議論だけでは、問題は解決できない。時差の関係で、自宅で睡眠中の取り引き相手まで、たたき起こすことになった。

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ボスの緊急事態だ。秘書のベティも、夜遅くまで残って、ジョンを手伝おうとした。しかし実際のところ、秘書がいても大きな手助けにはならない。秘書ができる、決まりきったパターンの仕事はない。ジョンには、秘書に仕事を頼む時間も無駄になる。

その夜、フィアンセとデイナーの約束があるのを知っていたジョンは、彼女を7時には家へ帰すことにした。
「ベティ、フィアンセとのディナーがあるんだろう?今日はもう帰っていいよ」

ブロンドの髪と青い瞳を持ったベティ。もともと光り輝いているその顔が、一瞬さらに明るくなった。会社存亡の危機よりも、彼女の人生に配慮をしてくれる上司。そんな好意的な方向への誤解が混じってはいたが、ベティは丁寧にお礼を言って、会社をあとにした。
「ありがとう、ジョン。お先に帰らせてもらいます。お仕事がうまくいくように、お祈りしています」

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いつもならば、5階建ての建物の全ての窓が暗くなっている深夜。その夜だけは、いくつかの窓がこうこうと明るく輝いていた。ジョンとロバートの部屋だけではない。事故の解析に取り組んでいる社員が、必死になって仕事を続けていたのだ。

悪いときには悪いことが重なるものだ。日本との連絡のために残っていたロバートが、ジョンの部屋へ来て言った。
「日本の厚労省が動いている。厚労省へ、大岡大学からも、OR-01Aの不具合についての報告が、入っているそうだ」

医療機器の安全性については、世界一厳しい日本の厚労省。販売許可が取り消されれば、二度と立ち直れないほどの打撃を受けることになる。メディカルロジック社に未来はなくなる。

ジョンにできることは、仕事を続けることしかなかった。それも、メディカルロジック社がより早く好都合な結論が出せるように、仕事を加速させること。

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開発部門長のジョンのオフィスは広かった。しかし、社内から集まった書類と、コンピューターから打ち出された書類のために、足の踏み場もなくなった。ベティが帰宅する前に、何度も作ってくれたコーヒー。空になったコーヒーカップが、書類の間にいくつも転がっていた。

ジョンはワイシャツのそでをまくり上げていたが、冷房が効いているにも関わらず、汗みどろになっていた。もはや、誰に遠慮することもない。ワイシャツを無造作に床へ投げ捨てた。裏表になったピンク色のワイシャツが、書類の上で無様に丸まった。ジョンの汗まみれの裸体が、冷たい蛍光灯の光で輝いた。

大きな努力が、暫定的なまとめを産み出した。午前零時を少し過ぎた頃に、最初のレポートを東京へ送ることができた。そのレポートで、結論を出すために今後検討する課題を示し、最終的な結論を4日以内に出すことを、約束した。

疲労困憊して帰宅したジョン

家に着いたとき、時刻は既に深夜の1時になっていた。妻のアイリーンはまだ起きて待っていた。ピンク色のバスローブに身を包んだアイリーンから、香水のほのかな香りが漂っていた。

赤毛のアイリーンは、髪の色ほどに上気した顔を、ジョンにまっすぐ向けた。言葉はとても静かだった。
「遅かったわね」

ぐったりと疲れきったジョン。妻の言葉に含まれるとげに、気づく余裕はなかった。
「電話で話したろう。東京で、会社の製品に事故があってね。東京へ送るレポートを作るために、関係者と議論をしたり、必要なデータを見つけ解析するのに、とても時間がかかったんだ」

アイリーンを、日本へ2度連れて行ったことがある。超近代的な東京と、日本人が昔から持つ奥深い精神を、今に残している京都、奈良とのコントラスト。アイリーンは強烈な感銘を受けた。ジョンは、メディカルロジック社の今後にとって、日本市場がいかに重要であるかを、何度も繰り返し説明した。
過去のそれら全ての経験を踏まえれば、上の一言で、妻は完全に理解してくれるものと、彼は考えたのだ。

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ジョンは、テーブルに乗っていた夕食に少し手をつけた。シャワーを浴びるのももどかしく、ベッドライトに照らされた白いベッドへ直行した。

ベッドにぐったりと横たわるジョン。アイリーンが身をすり寄せた。薄いネグリジェを通して、熱い体温がジョンへ伝わってきた。そのサインをジョンは理解したが、疲れていたので、無視することにした。夫婦生活が10年も続けば、その手のサインを時々無視することは、止むを得ない。

ジョンは、アイリーンに背を向けて、すぐに寝入ってしまった。アイリーンもジョンに背を向けると、ベッドの反対側へ移動した。ベッドが揺れてかすかな音を立てた。

オフィスを快適にする秘書

翌朝、睡眠不足のまま、いつもよりも早い時間に、腫れぼったい顔でジョンは出社した。秘書室を通り抜け、自分のオフィスのドアーを開けて驚いた。あれほど、書類やコーヒーカップが散らばっていた部屋が、埃一つなく、きれいに片づけられているではないか。しかも、汗臭かった部屋に、芳香まで漂っている。

誰かが片づけたにしても、まだ就業時刻前なのだ。早朝に出てこなければ、ここまで整理整頓することはできない。

朝の挨拶を交換したばかりの、秘書室のベティへ向き直ると、ジョンは聞いた。
「きみが片づけてくれたのかい?」

背筋をピンと伸ばして、コンピューターの画面を見つめていたベティ。ジョンの質問に対して、彼女は何でもないことのようにさらりと答えた。
「はい、私がやりました。昨日は、夜遅くまでお手伝いできませんでしたから、せめてあと片づけくらいは、きちんとやらなければ...」

ベティはそのままの姿勢で立ち上がった。
「今、コーヒーをお入れします」

ジョンはデスクの角を避けながら、デスクの後に立っているベティへ、足早に歩み寄った。止むに止まれない衝動に駆られてはいたが、自然体で、秘書の頬に軽くキスをしようとした。からだが斜めになってしまったジョン。唇が触れる箇所が少しずれ、ベティの唇の左端に接触してしまった。しかし、彼女はいやがる素振りを見せなかった。若い女の柔らかい唇の感触が、直接に伝わった。

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次の数日間の仕事の方向性は、社長ロバートの了解を得て既に決まっていた。ストレスは猛烈に大きかったが、朝から仕事に集中することができた。

その日、会社全体のムードとは反対に、彼のオフィスの雰囲気は、快適といってもいいくらいだった。ベティが部屋にまいた芳香が、部屋のどこかにいつまでも残っていて、鼻を心地よく刺激した。その香りは気持ちを落ち着かせた。

暴走した女の直感

手術事故が起こる前から、日本のマーケティングを支援するために、ジョンは毎日を忙しく過ごしていた。前夜の深夜帰宅ばかりではない。忙しさにかまけて、いつも帰りが遅くなっていた。

その日は、台湾とインドからの情報待ちの状態で、データ解析は翌日以降になる。妻に対して若干罪の意識があったジョンは、久しぶりに早く帰宅することにした。

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家に入ったとき、アイリーンが型通りのキスをした。彼女の唇が冷えているのに、ジョンは気づいた。アイリーンの瞳が、ジョンの顔を直視している。

彼女は一語一語区切りながら、質問をした。抑揚のなさが、逆に胸の奥深いところでの感情の高ぶりを、示していた。
「最近、私は何回か、5時過ぎにあなたのオフィスへ電話をしたのよ。でもあなたは、オフィスにはいなかったわね」

「何回も話したろう。日本進出のための重要な会議が続いたし、製品のトラブルがあって、社内を走り回っていたんだ。製造棟へもよく行っていたよ」

疲れきっていたとはいえ、アイリーンの態度と話の内容から、問題がややこしい方向へ動いていきそうなことに、ジョンは気づいた。そこで弁解の意味を含めて、ベティから聞いたことを言った。
「秘書のベティが、私のデスク電話が何回も鳴ったって言ったけれども、それはきみだったのかい?」

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アイリーンはジョンの言い分を完全に無視し、別の質問をした。その断固とした言い方は、ジョンのどのような言い訳にも、聞く耳を持たないことを示していた。
「最近、夫婦生活が途絶えているわね。どうしたのよ」

「会社が忙しくて、疲れているんだよ」

彼女はジョンの心を値踏みでもするように、ちょっと黙った。それから、勝ち誇ったように続けた。
「あなたのからだから、ほかの女の香水のにおいがするわ。それに、あなたの唇にも、誰かの口紅のにおいがする。とってもかすかだけれど、女の感覚って鋭いのよ。だまされないわ」

「からだのにおい?...ああ、それは多分、秘書が、オフィスにまいてくれた香水だよ。口紅のにおいというのは、秘書がオフィスをとてもきれいに片づけてくれたので、お礼に頬に軽くキスをしたときに、移ったにおいかもしれない」

今になれば、言い訳の最後の箇所に、罪の意識が芽生える。ジョンのかすかな動揺を、アイリーンは見抜いてしまった。

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目が釣り上がって、はんにゃになったアイリーンの顔。はんにゃの言葉が、機関銃の弾のように飛び出した。
「私の髪の色は何色か知ってる?赤よ。アカ。ところがあなたのワイシャツの裏に、ブロンドの髪が何本もついていたわ。嘘をつくのも、いい加減にしなさい。女を見損なっちゃいけないわ。男を見る女の本能は、完璧なんだから。女の直感は、決して間違うことはないのよ。あなたが、ほかに女を作ったのは、絶対に間違いないわ」

ジョンが何を言おうかと考えている間に、アイリーンは結論を言ってしまった。
「あなたが、そこまでほかの女に入れ込んでいるんだから、結婚生活を続けることはできないわ。離婚よ。リコン」

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男が、理屈抜きの女の直感と戦うことは、とても難しい。男の理性と理論では、太刀打ちできないのだ。ジョンは、妻の直感と戦うという、男の人生最大の試練を迎えることになった。

小説 2010/6/18

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