Story 11

遥かなるウクライナ

大平原の悲劇

ウクライナの大草原に立つと、どちらを見ても景色は全く同じだ。やわらかな微風に吹かれて、大海原の穏やかな波のようにうねる草原。真っ平らな緑の大地が、ゆるやかにカーブした地平線へ向かって、えんえんと続いている。
深く澄みきった青空に、強い白色光を放射する太陽が懸かっている。全てを包み込む広大な丸天井。宇宙の深遠にまで達する、茫漠とした空間。

こんな所に立っていると、地球は丸いというよりも、完全に平らな円盤のように見えてくる。

* * * * * * * *

イアンは、こんなウクライナの大平原の真ん中で、生まれ育った。

平屋の家のまわりに、低い木が少し生えている。家の裏側に、浅い小川が流れていた。 遊びは平原で。イヌや家畜を追いかけまわす毎日。少し離れた所にある小さな学校へは、歩いて通った。

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イアンが14才のとき、嵐がウクライナを襲った。大地を引き裂く、なたのように鋭い稲妻と大音響。地響きをたてて走り抜ける暴風。滝のように猛烈な豪雨。牧場の中を蛇行していた細い水の流れが、あっという間に大河になった。水かさが増して、荒れ狂う巨大な湖になった。
ウマやヒツジが危ない。
両親は、家畜を安全な所へ誘導するために外へ出た。イヌも一緒だった。その姿は、暴風雨の中へすぐに消えた。

そして、帰らないひとになった。イヌも戻らなかった。

アメリカへの恐怖の旅

アメリカで成功したイアンの叔父が、ロスアンゼルスに住んでいた。子供のいない叔父は、イアンを引き取ることにした。

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アメリカへの旅は、今まで経験したことのない恐怖を、イアンに与えることになった。

大平原の真ん中で生まれ育ったイアンは、地上1メートルを越える所にいたことなど、ほとんどなかったのだ。
都会の駅で電車に乗るとき、下を見てめまいを感じた。プラットホームと車両の隙間に、線路が見えたのだ。線路がすっと遠くなり、そこへからだが引き寄せられるように感じた。
産まれて初めて乗った電車。車窓から外を見て、電車の車体が空中に浮かんでいるような錯覚を、感じた。その車体は揺れ、線路からはずれて、今にも倒れそうな気がした。

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そう、大平原で生まれ育ったイアンは、高所恐怖症にかかったのだ。
電車が走っている間は、目をつぶっていた。だが、想像力は、電車と一緒に、奈落の底へどこまでも落ちていく幻想を、頭の中に生み出した。

飛行場でも大変だった。ターミナルの2階から、外を見ることもできなかった。ターミナルが横倒しになって、下へ下へと、どんどん落ちていくような気がしたのだ。イアンは吐き気を感じ、真っ青になった。通りがかったひとが気づいて、「どうしたの?」とたずねたが、イアンには説明をする適当な言葉を、見つけることはできなかった。
飛行機の席は幸いにも真ん中で、外の地面は見えなかった。地面が見えないと、比較的楽なことに気づいた。それでも、完全に飛び上がるまでは、目をつぶっていた。飛行の間中、下の雲海を見ないように、自分の席に坐ってまっすぐに前を見ていた。

いじめ

ロスアンゼルスは大都会だ。高い建物も多ければ、陸橋も多い。高速道路も高い所にある。イアンはなるべく外を出歩かないようにした。

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学校の友達は、イアンの行動に奇妙なところがあるのに、すぐに気づいた。2階の教室の窓から、外を見るのも怖がるイアン。窓から一番遠い席に、いつも坐るイアン。友達はそんなイアンをからかった。

アメリカの新しい生活で、英語のハンデも追わされているイアン。生来の負けん気も手伝って、友達に対し、必要以上に突っ張らなければならなくなった。
体育の時間には、平均台を渡るのさえも怖かった。それでも皆にはやされて、イアンは我慢をして渡った。鉄棒は、死ぬ思いで逆上がりをした。

ワルガキ・マックの策略

ある日、イアンが登校すると、友達が全員、既に教室にいた。全員が、いつもより早く学校へ来たのだ。イアンが教室に入ったとき、くすくすという笑い声が広がった。

「おはよう、イアン」と、ワルのマックが笑いながら言った。

マックのTシャツは黄色で、胸には、誇張されたアッカンベーをしている、男の黒い顔。下にプリントされている文字は、「FOOL」だった。

イアンは、すぐに状況を理解した。開いている席はたったひとつ。最前列、窓の近くの席だ。しかも机は、窓にぴたっと付けられている。
イアンはごくんとつばを飲み込んだ。それから黙ったまま、開いている席へ向かって歩いた。視線は何ごともないように、窓に向けたまま。しかし、目の焦点は、眼前の空中に合わせるように努力していた。
イアンは席に坐った。机と椅子を、窓から遠いほうへ少しずらすことはできたが、彼はそれをせずに、背筋をぴんと伸ばして坐り続けた。

* * * * * * * *

マックが目の前に来て、うれしそうに言った。
「さあ、今日も楽しく勉強しようね」。

イアンは黙ったまま、マックをにらみつけた。イアンの白い顔に、青いポロシャツの色が映えた。

「今日の勉強は半日だろう?」と、マックは笑いながら続けた。「それで、午後は皆で遊びに行くことにしたんだよね。クラスの親睦会ってわけさ。君も来るかい?」。

何か良くないことを企んでいるのは、明らかだった。しかし、イアンには、ここで弱気を見せる気は全くなかった。いつも先頭に立って、イアンをからかうマック。何があっても企みを受けてやる...。
ロシアの負けじ魂が燃え上がった。長く厳しい冬を、じっと耐えることで鍛えられたスラブの魂。自分を信じ、自分だけの力で逆境に絶えることでしか、生存できないことを知っているスラブの魂。

* * * * * * * *

イアンはマックを真正面からにらみつけて、はっきりと言った。
「いいとも、僕も親睦会に参加するよ」。

「よかった」と、マック。「君も来てくれれば、クラスメートが全員そろうから、楽しい親睦会になるよ」。
マックはまじめな顔になると、イアンの顔をまじまじと見つめながら聞いた。
「君は、新しくできたファン・パークを知っているかい?」。

イアンが答えた。
「知っているとも」。

マックが続けた。
「皆でそのファン・パークへ行くのさ」。

イアンは黙ったまま、マックに話を続けさせた。

「そこにバンジー・ジャンプがあるんだよね」と、マックは勝ち誇ったように言った。「僕はチャレンジするし、ほかにも11人がチャレンジするって言ってるよ。君はどうする?」。

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一瞬、バンジー・ジャンプの高い塔のイメージが、頭の中にひらめいた。眼前が真っ暗になるような気がした。しかし、イアンは平静を装って静かに言った。
「いいとも、僕もやるよ」。

「だから好きなんだよね」と、マック。
彼は、大げさにイアンの肩を叩いて言った。
「これで君は、皆の本当のクラスメートになるんだ」。

遥かなるウクライナ

空はとてもよく晴れていた。雲ひとつない紺青色の空...ウクライナの真夏の空と同じように、宇宙の深遠に達している。
イアンは、バンジー・ジャンプの塔の向こうの青空を、じっと見つめた。とても高く見える、赤い塔の先端の向こうにある空。針先のように細くなった塔の先端が、突き刺さっている空。

* * * * * * * *

「さあ、誰から始めようか?」と、マックがはずんだ声で言った。「イアン、君から始めるかい?」。

「いいよ」と、イアン。「僕が最初にやる」。

皆が奇声を上げた。
「ブラボー!」。

マックが、大げさにイアンの背中を叩きながら言った
「それゆけ、ヒーロー」。

* * * * * * * *

塔の階段を登りながら、イアンはウクライナの青空を想い続けた。全神経をウクライナの青空に集中させた。すると、吹いてくるそよ風が、ウクライナの干し草の香りを運んで来るように思われた。ウマやヒツジの鳴き声が聞こえた。小川のせせらぎも聞こえる。
下ではやし立てるクラスメートの声は、どこか遠いところのただの雑音としか、思えなくなった。

イアンは上だけを見続けた。長い長い長い階段。一歩一歩確実に歩を上へ進めた。時間がゆっくりと流れた。無限に続くかのように、終わることのない時間。
それでも、いつかは終点に達する。塔の先端が次第に近くなって来た。

下に広がっている光景のことは、考えなかった。ただウクライナの青空のことだけを、思い続けた。ウクライナの青空へ青空へと、近づいて行く。

* * * * * * * *

塔の先端に着いた。最後の段からゆっくりと足を離した。空に顔を向けたまま、夢を見ているようなイアン。

青いTシャツを着た係の男が、ゆっくりと登るイアンを忍耐強く待っていた。ずっと前から、昇って来るイアンの、尋常ではない様子に気づいていた男は、いらだちよりも不安を感じた。
ジャンプ台にたどり着いたイアンに、彼は心配そうにたずねた。
「大丈夫ですか?」。

イアンはしっかりとした声で答えた。
「大丈夫ですよ。さあ、やりましょう」。

ジャンプの前には、ほとんどのひとが不安の表情を見せる。イアンの表情が、普通のひとよりも不安そうだったとしても、係の男が、ここで彼を無理に止めるような理由には、ならなかった。
イアンの答がしっかりしていたこともあって、係の男は安心した。

幸福への落下

彼はイアンの足に、ゴム・ロープを固く巻きつけた。イアンは高い空のほうを見たまま、ジャンプ台の端へ一歩踏み出した。
イアンのからだの重心の移動につれて、ジャンプ台がかすかに揺れた。実際の揺れはかすかだったが、イアンには、からだのバランスが崩れるほどの大きな揺れのように、感じられた。まるで、カリフォルニアの強い地震が、台を揺さぶっているかのようだ。

「あぶない!」と、係の男が叫んだ。「立ち止まって準備して!」。

その時、バランスを崩したイアンの上体は、もう宙に浮いていた。左手で安全棒を握った係の男が、からだと腕を痛くなるほど伸ばしたが、差し出した手はイアンには届かなかった。

* * * * * * * *

瞬間、イアンは地平線を見た。大地がさーっと下へ後退した。イアンは、もう顔を上に上げることはできなかった。視線は真下に釘づけになった。
頭が殴られるようなめまいと、胃が一気に裏返しになるような激しい吐き気。
地面が前後左右に大きく揺れながら、下へ下へとどんどん落ちて行く。イアンのからだを支えるものは何もない。鉄片が、強力な磁石に吸い寄せられるように、イアンの上体は後退する地面へ落ちて行く。最後までジャンプ台に触れていたつま先が、空中に浮かぶ。

後で係の男が何か叫んだ。イアンはからだを激しくよじった。

* * * * * * * *

イアンのからだは、回転しながら落下し始めた。ゴム・ロープが、ジャンプ台の横に突き出ている、鋭い角を持った鉄の棒に巻きついた。
イアンは風を切りながら落ちた。からだが何度も回転した。ロープがよじれた。

地面がどんどん近づいて来る。木や草が、一本いっぽんまではっきりと見えるようになった。
イアンは目をかっと開いたまま、地面をしっかりと見つめ続けた。
地面は、もう手が届くような距離。イアンは突然幸せになった。こんなに地面に近い!もうすぐ地面に立てる!

ロープが伸びきった。そうして、鉄の棒にからまったところで、鋭い鉄の角の攻撃に耐え切れずに、プツンと切れた。

* * * * * * * *

地面がさらに近づく。もう大丈夫。もう安心。ほら、そこが地面だ。地面に顔が触れる。ウクライナの大地...なんという幸せ!

小説 2009/7/17


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