Story 10

ポル・ポト審判

目覚めたポル・ポト

あたりがとても静かだ。

汗一つかいていない。気温も湿度も、これ以上ないほど心地よい。空気がからだの一部になったようだ。皮膚感覚が、四方八方へ自由に発散していく。
45度の気温はどこへ行ったのか?95%の湿度はどこへ行ったのか?

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ポル・ポトは、最初、自分がどこにいるのか全く分からなかった。

* * * * * * * *

まぶたを通して目の奥へ入り込む、非現実的なほどやわらかく明るい光。ポトはゆっくりとまぶたを開けた。多分、完全に開けるまで、数秒しかかからなかったが、まるで、何時間もかけてまぶたを開いたような気がした。
自分の重みを感じることがなかったので、目を開けるまでは気づかなかった。ポトは仰向けになって寝ていた。

寝ころがったまま上を見た。輪郭のない光が満ちた広大な天井。違う。天井というよりも、深い奥行きのある空間だ。形のあるものは何も存在しない、茫漠と広がる空間。
それは、今までに見たこともない空間だった。

カンボジアのジャングルで迎えた最後

金縛りにあったように、身動きができなかった。しばらく、そのままじっとしている間に、記憶がゆっくりとよみがってきた。

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タイとの国境に近い、カンボジア西部のジャングルの中に、クメール・ルージュの暫定首都があった。首都といっても、数百人が住む掘っ立て小屋が、木々の間に沈みこんでいる集落にすぎなかった。
プノンペンははるかに遠く、人跡未踏の密林が、政府軍が近づくのを防いでいた。

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だが、危険は身近にあった。政府軍ではなく、身内が敵になったのだ。

耐えがたいストレス。その日暮らしの厳しい生活。未来には絶望しかない。長い内戦で、勝ち目のない戦いを強いられていた若い兵士たちが、反乱を起こした。
若い兵士たちは、何が何でも戦いを終らせることしか、考えなかった。

ポトが幸運だったのは、これらの若者が、戦争を終らせるための明確な戦略を、思いつかなかったことだ。
自分たちが生き延びるには、ポトを殺したほうがいいのか?しかし、ポトなしでジャングルの中で生活をできるのか?
それとも、降参をするときに、ポトを生きたまま政府軍に差し出したほうが、自分たちに有利になるのか?しかし、ポトを通して、自分たちも関与した悪行を暴露されないか?
若い反乱兵士たちは、取り合えず、ポトを生かしたままで掘っ立て小屋に軟禁した。

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自国民に対する、残忍なジェノサイドを実行したポル・ポト。そんなポトも、自分を支持する人間が一人もいなくなれば、ただの年寄りになってしまう。それも、全てのカンボジア人から報復を受ける恐怖に、脅えている年寄りだ。

ポトは体調を崩して、寝たきりになってしまった。小さな小屋の固いベッドの上で、身動きをするのがやっとの衰弱した年寄り。
木々と、屋根のヤシの葉の隙間を通り抜けて到達する陽光が、ポトを幽霊のように浮き上がらせた。
恐怖の独裁者の面影は全くなかった。やせてたるんでしまった顔の皮膚には、幾条もの深いしわが刻まれた。日焼けした顔が、体調不良でどす黒くなった。

それでも、何カ月か生き延びた。ポトを裏切ったクメール・ルージュの若い兵士たちが、いつも見張っていたが、ポトには逃げる力は残されていなかった。兵士たちは、最後の切り札として使えるかもしれないポトを、見張っていたにすぎない。

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そして、心臓発作が起きた。呼吸が苦しくなり、眼前が真っ暗になった。ついに死期が訪れたのを、ポトは瞬間的に悟った。

天国へ来てしまったポル・ポト

そうだ、自分は死んでしまったのだ。それでは、ここはどこだ?

何百万人ものカンボジア人を殺りくした自分が、天国に来るはずはない。
それでは、ここは地獄か?それにしては、いやに明るく静かだ。あたりはとても平和に見える。とても心地よい。
灼熱地獄でもなければ、寒冷地獄でもない。

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訳が分からなくなったポル・ポトは、白昼夢を振り払うように軽く頭を振った。そのまま頭をまわして、視線を下げた。
何者かが大勢いる。直線状のとても長いテーブルの向こう側に、大勢の人たちが、ずらっと並んで坐っている。

ここが地獄ならば、そこに並んで坐っているのは鬼か悪魔か?でも、邪気は全く漂ってこない。ここは本当に地獄なのだろうか?

* * * * * * * *

「ポトよ、もう十分に寝たろう。立ち上がりなさい」と、頭の後で誰かが甲高い声で言った。
ポトは目だけを後へ動かした。
白いガウンを着た男が立っている。背中に何か白いものをつけていた。両側へ広がった長いもの。羽のように見える。羽.........。

ポトはふと思った。
「天使のように見えるな。いや、天使だ。天使だ。間違いなく天使だ」。
しかし、それではここは天国なのだろうか?まさか.......自分が天国へ来るはずがない。

* * * * * * * *

ポトは念のために聞いてみた。
「ここはどこですか?もしかしたら、天国........」と言いかけて、言葉が詰まってしまった。
そんなことを問いかける自分が、おかしかったのだ。周囲の人たちも吹き出すだろう。

一瞬の間を置いて、白いガウンの男が静かに答えた。笑ってはいなかった。
「その通り。ここは天国だよ」。

その余りにも思いがけない答を聞いて、ポトの頭の中は、一瞬完全に空白になった。
それから、たった一つの言葉が、頭の中に突然あふれ出た。
「ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、ラッキー、........」。

ポトは大喜びで飛び上がった。しかし、不意に、自分は心筋梗塞で死んだのに気づいた。突然興奮をしては危ない。また発作を起こすかもしれない。
死んだら大変だ。
しかし、そんなことを考えた自分が、とてもおかしくなった。自分は死んでここへ来たのだ。もう二度と死ぬことはない。

* * * * * * * *

実際に、なんだかとても気分がいい。20代の青年のような健康が、からだの中に張り切っているのを感じる。あと何百年でも何千年でも生きられそうだ。心臓は正常に動いている。リューマチで不自由だった両足も自由に動く。
「これではまるで天国だっ!」と思って、またおかしくなった。
おかしさとうれしさが倍増した。そう、自分は間違いなく天国にいるのだ。

神様との対話

ポトは、目の前に並んで坐っている人たちに、視線を向けた。
随分大勢いる。何人いるのか、とても数えきれない。左右へどこまでも長く伸びたテーブルは、遠くのほうでは、かすんで見えなくなっている。

* * * * * * * *

「神様に礼!」と、横に立っている天使が言った。
ポトにうながしたのだ。ボーッと立っているだけのポトに対して、いささかいらついている様子が、声音から受け取れた。

神様だって?どこに?
ちょうど目の前に、ひときわ大柄な男が坐っていた。
白衣はあくまでも白く、天使の白衣よりも、間違いなくより高級な布地で作られていた。からだ全体から、まるで1万ワットの電球のように、光を四方八方へ放射し、その威風堂々振りは周囲を圧倒していた。

これだ。これが間違いなく神様だ。
その威風堂々振りに圧倒されもせず、ポトは、神様に向かって大きく90度の礼をした。もう天国に来てしまったのだから、なんだってやってやると、思ったのだ。

* * * * * * * *

「ポトよ」と、おごそかな神様の声。
「ハ、ハイ、ハイ、ハイ、ハイ!」。
はずんだ子供のような甲高い声で返事をしてしまい、ポト自身がおかしくなった。

「ここは天国の入り口、審判所じゃ」と、神様の声。
エッ、審判所?何を審判するのかな?
ポトはちょっとあわてた。

「ここで審問にパスをすれば、お前を天国へ入れてやる。しかし、パスをしなければ、地獄へ送ることになる」と、神様。
ポトはあわてた。そうか、まだ天国に住めるかどうかは、分からないのだ。なんだ、喜んで損をした。

殺された人たちが審問

「私の右側を見なさい」と、ポトの気持ちを知ってか知らずか、神様の冷静な声。
「お前に殺されて、天国へ来たカンボジア人たちだ」。

ポトは、ハッと息を呑んだ。
神様の右側、はるか遠く、かすんで見えなくなるところまで、並んで坐っているのは、確かにカンボジア人たち。大変な数のカンボジア人。そのカンボジア人たちの瞳は、まっすぐにポル・ポトを見つめていた。

* * * * * * * *

よく見ると、若いときの友だちがいる。昔の隣人たちも、3人を見分けることができた。親切にしてもらったことがあるので、忘れることはない。
さらによく見ると、遠くに、若いときに付き合っていた、ガール・フレンドまでいるではないか。それに、親類縁者がかたまって坐っている。遠すぎて顔ははっきりとは見えないが、間違いはない。

* * * * * * * *

ポトは仰天した。からだが凍りついた。萎縮して、消えられるものならば、消えてしまいたいと、思った。

自分と、自分が下したジェノサイドの命令を受けて、部下たちが殺したカンボジア人たち。しかし、彼らの瞳の中には、もはや憎しみの陰はなく、とても静かに澄みきっていた。それが、ポトを余計にいたたまれなくした。
皆、憎しみの瞳で見てくれたほうが楽だ。
憎んでくれ!憎んでくれ!憎んでくれ!

* * * * * * * *

「お前が殺したカンボジア人の一人ひとりと、これからお前は対話をするのだ」と、神様の重い声。
「そして、お前自身と、お前の犠牲になったカンボジア人たちが、お前が天国に住むことを適当と結論したならば、天国に住むのを許すことにする。私は天国で、いつもこんな風に民主的にやっているのだよ」。

自分が殺したカンボジア人の一人ひとりと、対面をするのか?それは恐ろしいことだ。考えただけで、恐怖のために、ポトは鳥肌を立てた。

天国より地獄を選んだポル・ポト

ポトはあわてて、さらに恐ろしい質問を、確認のために口にした。
「ここに坐っているカンボジア人たちは、皆、天国に住んでいるのですか?」。
「その通り」と、神様の無表情な声。

それでは、もしも天国に住むことになったならば、これらのカンボジア人たちと、毎日顔を合わせることになる。
それは大変だ。とても耐えられない。

* * * * * * * *

ポトは必死になって、この恐怖の可能性から逃げる方法を考えた。そして、全智をささげて考えたおかげで、助かる方法があるのに気づいた。

「地獄に、私が殺したカンボジア人は住んでいますか?」と、まず確認のために神様に質問をした。
「お前が殺したカンボジア人たちは、皆、善良だ。地獄には住んでいない」。
「それでは、ヒットラーやスターリンは?」と、ポトはあえぎながら再びたずねた。
「ヒットラーもスターリンも、地獄に住んでいるよ」と、神様。

「よかった」と、ポトは安堵の吐息をもらしながら考えた。
二度と顔を合わせたくないカンボジア人たちは、地獄にはいない。
そして、自分よりも、もっと多くの人たちを殺したヒットラーやスターリンが、地獄に住んでいる。地獄がいくら恐ろしいところでも、自分の待遇は、少なくともヒットラーやスターリンよりはいいだろう。

* * * * * * * *

ポル・ポトは、神様に向かって大声で叫んだ。
「神様、ここでの審判はやっていただかなくて結構です。今すぐ、私を地獄へやってください」。

小説 2009/4/4


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